2020年4月28日火曜日

今週の今昔館(213) 野田藤 20200428

〇浪華の賑ひに見る江戸時代の大坂(44)

 今回は「浪華の賑ひ」の「野田藤」をご紹介します。

■野田藤
 この地は下福島の西北にあり。紫藤多く、林中の古松にまとひていと風流(みやび)なり。花盛の頃は遠近の雅俗ここに来って幽艶を賞す。樹下に春日の祠、また傍に藤の庵といへるあり。豊太閤御遊覧の古跡なりといふ。

浪華の賑ひ「野田藤」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)


 「浪花百景」にも、「野田藤」があります。

■野田藤(芳瀧画)
 古来、吉野の桜、高尾の紅葉とともに並び称される野田・春日神社の藤。貞治3年(1364)室町幕府の二代将軍足利義詮が住吉詣の帰途、来遊し「いにしえのゆかりを今も紫のふじ浪かかる野田の玉川」と詠じています。太閤秀吉も御伽衆らを伴い藤見物に訪れたといわれます。大坂の花見のうちでも藤之宮として第一の名所でした。
 明治期に植物学者牧野富太郎博士が自生の原種として認め、ノダフジと命名しました。第二次大戦や台風災害のため絶滅の危機に瀕しましたが、地元の努力によって再生を遂げています。

浪花百景「野田藤」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)

現在の春日神社
野田の藤跡の碑


 江戸時代天保年間発行の「浪華名所獨案内」の野田付近を見ると、「野田」と「下福島」の間に「春日社」の地名が見えます。観光ルートにもなっています。このほか、野田付近では「円満寺」の「二十一人討死旧跡」が描かれています。この地図は、東が上に書かれています。北を上にしましたので文字は右を向いています。

浪華名所獨案内(「津の清」蔵)

 次に、天保8年(1837)発行の天保新改攝州大坂全圖を見てみましょう。「野田村」の東に、「玉江春日」「円満寺」「極楽寺」「エビス社」の文字がみえます。堂島川の傍には「下ノ天神」もあります。

天保新改攝州大坂全圖(国際日本文化研究センター蔵)

 大正13年発行の大阪市パノラマ地図では、市電の「玉川町三」と「下福島」の北東に「戎神社」が描かれています。「春日社」の文字は見えませんが、公園の周りにいくつかの寺社の絵があります。位置的には公園の左上の緑が「春日社」と思われます。省線(現在のJR大阪環状線)は地上を走り、それに並行して市電も走っています。「玉川町四」の交差点では、市電が立体交差している様子も描かれています。

大阪市パノラマ地図(大阪くらしの今昔館蔵)

 昭和12年発行の大大阪観光地図を見ると、市電「玉川町三」停留所の北に神社と公園()の記号があります。これは戎神社とその北側の公園と考えられます。それ以外に神社の記号は表示されていません。中央卸売市場が絵入りで大きく描かれています。

大大阪観光地図(国際日本文化研究センター蔵)

 今昔マップ3を利用して、地形図の変遷を見てみます。
 左上の明治42年では、西野田の地名の右上に神社や寺の記号がいくつか見られます。一番上(北)の神社が春日神社と思われます。省線(現在の環状線)の北側はほとんど農地であったことが分かります。
 右上の昭和7年では、省線の北側まで市街地化が進んでいます。「玉川町」の地名の右側に神社や寺の記号がいくつか見えます。
 左下の昭和30年では、白い部分が戦災によって焼失した地域です。西野田、江成町、中江町あたりと江川町の一部は、戦災を免れたことが分かります。
 右下の昭和42年を見ると、市街地の復興が進み、市電の一部は廃止されています。玉川町に寺社の記号はありますが、春日神社は表示されていません。

明治42年から昭和42年の地形図
(今昔マップ3より)

 今回は、「浪花百景」の「野田藤」をご紹介し、周辺地域の変遷を見てきました。
 室町時代の1364年には、足利義詮が住吉詣の途中、野田に立ち寄り、玉川の藤を見て「いにしえの ゆかりを今も 紫の ふし浪かかる 野田の玉川」と詠みました。その後、玉川の藤は「吉野の桜、野田の藤」と並び称せられました。


 福島区の住居表示案内板は、「野田藤」にちなんで藤色が使われています。他の区では、ブルーやグリーンが多い中、地域性を生かしたユニークな取り組みです。

 区のホームページにもトップページで「のだふじ」が紹介され、藤色を基調としたページ作りになっています。シンボルマークにも藤の花がデザインされています。

www.city.osaka.lg.jp/fukushima/
 今昔館8階展示室の床面には大きく拡大した「大阪市パノラマ地図」がありますので、昔の地図、現代の地図と見比べながらお楽しみください。




〇大阪くらしの今昔館からのお知らせです。

 当面の間、臨時休館を延長します


 新型コロナウイルス感染症の拡大防止の観点から、当面の間、臨時休館を継続いたします。
 当館の展示を楽しみにして下さっている皆様には申し訳ありませんが、ご理解のほどよろしくお願いいたします。
 なお、今後の予定につきましては、国や大阪市の動向、感染症の拡大状況を注視しつつ決定し、ホームページにおいてお知らせします。



〇大阪くらしの今昔館「町家の商い編」
 今昔館の休館が長引いていますので、館の見どころを動画でご紹介します。今回は「町家の商い編」です。
https://www.youtube.com/watch?v=kUQlQjGQpVE


 今昔館の江戸時代のフロアをご紹介する動画は4編あります。
http://konjyakukan.com/link_pdf/what's%20this%20.pdf


 このほかに今昔館の近代のフロアをご紹介する動画が2編あります。
https://www.youtube.com/watch?v=SbqzmybwKss&feature=youtu.be

https://www.youtube.com/watch?v=EohP-xqrOi4



 大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからご覧ください。
http://konjyakukan.com/index.html


 「今週の今昔館」の第1回から第52回までは、「古地図で愉しむ大阪まち物語」に掲載しています。
 「今週の今昔館」の第1回はこちらからご覧ください。
http://osakakochizu.blogspot.com/2016/08/blog-post_5.html


 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。

「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。
http://www.sumai-machi-net.com/
初めての方はこちらからどうぞ。
http://www.sumai-machi-net.com/howtouse


2020年4月21日火曜日

今週の今昔館(212) 鮹松 20200421

〇浪華の賑ひに見る江戸時代の大坂(43)

 今回は「浪華の賑ひ」の「鮹松(たこのまつ)」をご紹介します。堂島川沿いの久留米藩・広島藩蔵屋敷前にありました。

■鮹松
 久留米御蔵屋敷の浜にあり。頗る大樹の老松にして四面(めぐり)に枝葉をたるることあたかも鮹(たこ)の形に似たりとて、世俗かくは号(なづ)くるなり。されば、蒼々として、君子の操をあらはし、川水にうつる景色いふべくもあらず。月の夕・雪の朝にはひとしほの瞻望(ながめ)なれば、雅俗きそひてこれを賞す。
 この川岸の西の方に玉江橋といへる橋あり。この橋上より天王寺の大塔はるかに見えるなり。俗に浪花の奇観とせり。

浪華の賑ひ「鮹松」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)


 「浪花百景」にも、「蛸の松夜の景」があります。

■蛸の松夜の景(国員画)
 米市場に近い堂島川両岸には、各藩の蔵屋敷が建ち並びます。その前には各藩自慢の松が植えられ、なかでも、田蓑橋の架かる中之島、久留米藩の門前には、川に突き出すような枝振りが蛸の泳ぐ姿に比された黒松があり、「蛸の松」として評判でした。別の説として、特に、広島藩邸前の蛸の松、久留米藩邸前の鶴の松が有名であった。という説もあります。
 「蛸の松」は、もとは東隣の広島藩主・福島正則が植えたといわれ、続く浅野氏も扶持米10石を与えて維持したというほどの名松で、特に月の夕べ、雪の朝の眺めは激賞され、あらゆる人が水辺の絶景の第一として賞賛しました。
 明治以降は大阪市が肥料を与えて保護しましたが、明治後年に枯死しました。近年場所を変えて新たに松が植えられて、往時を顕彰しています。

浪花百景「蛸の松夜の景」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)

 また、浪花百景には「玉江橋景」もあります。蛸の松の西側に架かっていた橋です。

■玉江橋景(国員画)
 堂島川と堂島新地の整備開発に伴い17世紀末に架けられた玉江橋。北に肥後・中津藩、南に久留米藩と蔵屋敷が建ち往来が盛んで、南詰めにある薬師堂の縁日の日は人出も多くありました。橋の南側は、諸藩自慢の名松の枝が川面をおおう秀麗な地でした。
 橋を北から渡ると、反りを持った橋の中央から四天王寺の五重塔が遠望できることが評判で、その風景が好んで画題に取り上げられました。画中の治安維持のため巡回する隊列に幕末に向かう時代の機運が感じ取られます。
 現在は高い建物が多く、とても四天王寺までは見通すことはできません。

浪花百景「玉江橋」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)


 江戸時代天保年間発行の「浪華名所獨案内」を見ると、地図の中央部、堂島と中之島の間に架かる「玉江バシ」と「タミノバシ」の中間あたり、中之島の北岸の赤丸印の箇所が、もともとの「蛸の松」のあったところです。現在は「タミノバシ」の北詰めに植え替えられ、記念碑があります。この地図は、東が上に書かれています。北を上にしましたので文字は右を向いています。

浪華名所獨案内(「津の清」蔵)

 次に、天保8年(1837)発行の天保新改攝州大坂全圖を見ると、堂島川に「玉江橋」と「田蓑橋」が架かり、中之島には2つの橋の間に久留米藩と廣島藩の蔵屋敷があります。2つの蔵屋敷の境目辺りが蛸の松のあったところです。現在は田蓑橋の北詰西側に植え直され、傍に蛸の松の記念碑があります。

天保新改攝州大坂全圖(国際日本文化研究センター蔵)

 大正13年発行の大阪市パノラマ地図を見ると、堂島に「玉江橋」と「田蓑橋」が架かり、その中間の「大倉商業学校」の前辺りが蛸の松のあったところです。「田蓑橋」の北詰、梯子の建っている所に松が植え直され、記念碑があります。

大阪市パノラマ地図(大阪くらしの今昔館蔵)

 昭和12年発行の大大阪観光地図を見ると、堂島には「中央電信局」と「大学病院」が大きく描かれています。「大学病院」の南側、田蓑橋の北詰に松が植え替えられ、記念碑があります。「中央電信局」は、絵がはみ出ていますが、実際は田蓑橋の東側、商工会議所と並んで建っていました。 

大大阪観光地図(国際日本文化研究センター蔵)

 今昔マップ3を利用して、周辺地域の変遷を見てみます。
 左上の明治42年では、堂島川から北側一帯が白くなっており、北の大火によって焼失した地域であったことが分かります。中之島には東西に市電が走っています。
 右上の昭和7年を見ると、地域一帯は復興が進み市街地が広がっています。堂島の北側にあった蜆川(曽根崎川)は埋め立てられ、川の跡地は堂島の敷地に取り込まれています。

明治42年から平成8年の地形図
(今昔マップ3より)

 左下の昭和42年を見ると、堂島の大学病院、中之島の阪大医学部・理学部の西側に広い幹線道路(なにわ筋)ができています。中之島の市電は廃止されています。
 右下の平成8年では、大学病院と阪大は吹田へ移転した後で、名称が消えています。現在、大学病院の跡地は朝日放送などがある「ほたるまち」になり、阪大理学部の跡には大阪市立科学館と国立国際美術館があります。阪大医学部の跡には阪大中之島センターが建っています。このビルに隣接して大阪市の新美術館が建設予定です。

 鮹松付近の現状を写真で見てみましょう。

現在の蛸の松
(位置が変わっています)
現在の蛸の松
田蓑橋北詰にあります
現在の蛸の松
後方の阪大中之島センター辺りが元の場所
蛸の松の碑
田蓑橋からの風景
大阪府師範学校跡の碑
阪大中之島センターの北側の堤防上にあります
師範学校跡の碑の側面
この地に「蛸の松」とて名松あり
この松を友として生徒勉学に励みたり
大阪大倉商業学校跡の碑
師範学校跡の碑の隣にあります
師範学校跡の碑から、現在の蛸の松のある田蓑橋北詰を望む
現在の玉江橋
玉江橋の顕彰板


 今回は、「浪華の賑ひ」の「鮹松」をご紹介しました。今昔館8階展示室の床面には大きく拡大した「大阪市パノラマ地図」がありますので、昔の地図、現代の地図と見比べながらお楽しみください。

 大阪市パノラマ地図についてはこちらに解説があります。
http://konkon2001.blogspot.jp/2017/10/blog-post_10.html
http://sumai-osaka.blogspot.jp/2015/08/blog-post_29.html



〇大阪くらしの今昔館からのお知らせです。

 当面の間、臨時休館を延長します


 新型コロナウイルス感染症の拡大防止の観点から、当面の間、臨時休館を継続いたします。
 当館の展示を楽しみにして下さっている皆様には申し訳ありませんが、ご理解のほどよろしくお願いいたします。
 なお、今後の予定につきましては、国や大阪市の動向、感染症の拡大状況を注視しつつ決定し、ホームページにおいてお知らせします。



〇大阪くらしの今昔館—「近代の大阪」展示室「住まいの大阪六景」の見どころ
 今昔館の休館が長引いていますので、館の見どころを動画でご紹介します。今回は「住まいの大阪六景」(川口居留地・北船場・大大阪新開地・空堀通・城北バス住宅・古市中団地)の見どころです。
https://www.youtube.com/watch?v=EohP-xqrOi4



 このほかに今昔館の江戸時代のフロアをご紹介する動画が4編あります。順次ご紹介していきます。
http://konjyakukan.com/link_pdf/what's%20this%20.pdf




 大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからご覧ください。
http://konjyakukan.com/index.html


 「今週の今昔館」の第1回から第52回までは、「古地図で愉しむ大阪まち物語」に掲載しています。
 「今週の今昔館」の第1回はこちらからご覧ください。
http://osakakochizu.blogspot.com/2016/08/blog-post_5.html


 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。

「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。
http://www.sumai-machi-net.com/
初めての方はこちらからどうぞ。
http://www.sumai-machi-net.com/howtouse


2020年4月14日火曜日

今週の今昔館(211) 雑喉場 20200414

〇浪華の賑ひに見る江戸時代の大坂(42)

 今回は「浪華の賑ひ」の「雑喉場」をご紹介します。

■雑喉場
 この地は江戸堀・京町堀等の末にして、鮮魚(なまうを)の市場なり。さる程に、毎朝遠近の浦々より鱗(いろくづ)を運送し、鯨・鮪(しび)・鰤(ぶり)の大魚より鰶(つなし、注:このしろ、セイ)・鰯の小魚まで群をなして市を立つることいといさまし。
 わけて、夏六月朔日より夜市なれば、炬火(たいまつ)・篝火(かがりび)を焼きて売り買ふその光景目ざましく夥(おびただ)し。
 人勢ひにまけて散り出す桜かな 柳亭翠鶯

浪華の賑ひ「雑喉場」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)

 「浪花百景」にも、「雑魚場」があります。

■雑魚場(芳瀧画)
 豊臣期には生魚・塩干魚を扱う商人が天満に市を開いていましたが、鮮度を考慮し、河口に近く船の利用しやすい鷺島に移ってきました。官許の魚問屋が明和年間(1764~1772)には84軒あったとされ、問屋の裏口が荷揚げ場の百閒堀川に面していました。
 雑魚場魚市場は、江戸時代を通じ大坂市中の鮮魚の独占的な取引権を獲得し、堂島米市場、天満青物市場とともに大坂三大市場の一つとして繁栄を誇り、天下の台所、食い倒れ大坂の源となりました。近海で獲れた魚が毎朝荷揚げされ、揃いの紺の着物の仲買人が威勢よく働き、勇ましい掛け声とともに行われる取引は、商人の町大坂を象徴する風物でした。
 明治以降も雑魚場は発展を続けましたが、昭和6年大阪市中央卸売市場開設にともない消滅しました。かつて荷揚げの便を支えた百閒堀川も戦後の埋め立てによって姿を消し、現在記念碑が建てられています。


浪花百景「雑魚場」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)

 江戸時代天保年間発行の「浪華名所獨案内」の雑魚場付近を見てみると、おおきく「雑魚場魚市場」の文字があり、赤い線で「ウツボ天満町」と「カイヤ町」と結ばれています。それぞれに「〇塩魚店多シ」「〇カイヤ多し」の文字があります。カイヤは櫂屋です。魚市場とこれらを結ぶルートが観光コースになっていたようです。雑魚場から北へは「西北バシ」、南へは「モザエモンバシ」が架かっています。
浪華名所獨案内(「津の清」蔵)

 文化3年発行の「増修改正摂州大阪地図」を見ると、川口には御番所、御舟蔵があり、対岸の江之子島には「巳亥築地」の文字が見えます。江之子島から北へ「崎吉橋」が架かり、「川魚市場」「乙酉ツキヂ」の文字があります。
 雑魚場には、「雑魚場町」「魚市バ」の文字があり、江之子島との間には、「上ノハシ」「下ノハシ」が架かっています。

増修改正摂州大阪地図(ラムゼイコレクションより)

 次に、天保8年(1837)発行の天保新改攝州大坂全圖を見てみましょう。雑魚場から江之子島の間に「上ハシ」「下ノハシ」の2つの橋が架かり、「ザコバ丁」「魚市バ」の文字があります。

天保新改攝州大坂全圖(国際日本文化研究センター蔵)

 大正13年発行の大阪市パノラマ地図では、江之子島との間の百間堀川に「ざこばばし」が架かり、変体仮名で「ざこば」の文字が書かれているあたりが雑魚場です。府庁の傍にある市電「江之子島」停留所からの利便を考えてざこば橋が架けられたのでしょう。江之子島の北の端には北へ「さきよしばし」が架かっています。雑魚場との間には「さぎしまばし」があります。江戸堀には「さきよしばし」と「さいほくばし」の間にもう一つ橋がありますが、名前は書かれていません。

大阪市パノラマ地図(大阪くらしの今昔館蔵)

 昭和12年発行の大大阪観光地図を見ると、市電のネットワークが拡がり、土佐堀通にも市電が走っています。川口町からは四方に市電網が走っています。
 江之子島の府庁は大手前に移転し、跡は工業奨励館となっています。地図左上の野田には、中央卸売市場が開業し、大阪市場冷蔵会社の文字もあります。

大大阪観光地図(国際日本文化研究センター蔵)

 今昔マップ3を利用して、地形図の変遷を見てみます。
 左上の明治42年では、中之島から大阪港につながる市電が通っています。江之子島には府庁の姿があります。府庁の北から百間堀川を渡った辺りが雑魚場です。
 右上の昭和7年では、木津川橋と江之子島橋が拡幅されて本町通にも市電が通っています。ざこば橋も架け替えられています。
 左下の昭和30年では、白い部分が戦災で焼失した地域で、大きな被害があったことがわかります。昭和橋が架かり市電が土佐堀通にも走っています。
 右下の昭和42年を見ると、市電は土佐堀通から港通りにつながる路線を除いて他は廃止されました。江之子島との間にあった百間堀川が埋め立てられ、新たに「新なにわ筋」ができていますが、中之島にわたる橋はまだありません。

明治42年~昭和42年の地形図(今昔マップ3より)

 最新のグーグルマップを見ると、江戸堀、百閒堀、古川などが埋め立てられ、新なにわ筋ができており、昭和戦前とは地形が大きく変わっています。江之子島は島ではなくなっています。川口から土佐堀通につながる橋が「昭和橋」、本町通につながる橋は「木津川橋」です。新なにわ筋の上には阪神高速道路3号神戸線が通っています。

最新のグーグルマップ


 雑喉場の現状を写真で見てみましょう。

雑喉場魚市場跡の周辺
雑喉場魚市場跡の周辺
雑喉場魚市場跡の周辺(江之子島公園)
雑喉場魚市場跡の碑
雑喉場魚市場跡の碑
雑喉場魚市場跡の碑の説明文
ざこばばしの碑
雑喉場橋之碑説明文

 今回は、「浪華の賑ひ」の「雑喉場」をご紹介しました。今昔館8階展示室の床面には大きく拡大した「大阪市パノラマ地図」がありますので、昔の地図、現代の地図と見比べながらお楽しみください。

 大阪市パノラマ地図についてはこちらに解説があります。
http://konkon2001.blogspot.jp/2017/10/blog-post_10.html
http://sumai-osaka.blogspot.jp/2015/08/blog-post_29.html



〇大阪くらしの今昔館からのお知らせです。

 臨時休館延長のお知らせ 2/29(土)~当面の間


 新型コロナウイルス感染症の拡大防止の観点から、当面の間、臨時休館を継続いたします。
 当館の展示を楽しみにして下さっている皆様には申し訳ありませんが、ご理解のほどよろしくお願いいたします。
 なお、今後の予定につきましては、国や大阪市の動向、感染症の拡大状況を注視しつつ決定し、ホームページにおいてお知らせします。



〇大阪くらしの今昔館ー近代の大阪にタイムトラベル
 今昔館の休館が長引いていますので、館の見どころを動画でご紹介します。今回は近代のフロアをご紹介します。
https://www.youtube.com/watch?v=SbqzmybwKss&feature=youtu.be


 今昔館の江戸時代のフロアの動画は4編あります。順次ご紹介していきます。
http://konjyakukan.com/link_pdf/what's%20this%20.pdf



 大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからご覧ください。
http://konjyakukan.com/index.html


 「今週の今昔館」の第1回から第52回までは、「古地図で愉しむ大阪まち物語」に掲載しています。
 「今週の今昔館」の第1回はこちらからご覧ください。
http://osakakochizu.blogspot.com/2016/08/blog-post_5.html


 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。

「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。
http://www.sumai-machi-net.com/
初めての方はこちらからどうぞ。
http://www.sumai-machi-net.com/howtouse