臨時休館のお知らせ 【令和2年2月29日(土)~3月17日(火)】
このたび、新型コロナウイルス感染症の拡大防止の観点から、令和2年2月29日(土)~3月17日(火)までの間、休館することとしましたので、お知らせいたします。
当館の展示を楽しみにして下さっている皆様には申し訳ありませんが、ご理解のほどよろしくお願いいたします。
なお、3月18日以降の予定につきましては、今後、国や大阪市の動向、感染症の拡大状況を注視しつつ決定し、大阪くらしの今昔館のホームページにおいてお知らせします。
〇浪華の賑ひに見る江戸時代の大坂(35)
今回は「浪華の賑ひ」の「新町廓中」と「瓢箪町」をご紹介します。
「浪花の賑ひ」の本文には「新町廓」があります。
■新町廓
新町橋の西にあり。
寛永年中はじめてここに廓を許され、田圃を開きて新たに町となせしゆゑ世の人かくはなづけ初め、柳泊(くるわ)の惣名(そうみょう)となれり。もっともその頃は浪花三郷の西の端にて、是より西は田圃なりしが、後世漸(しだい)に土地はびこり、今は市中の正中(ただなか)とはなれり。浪花の繁栄古今の沿革にて知るべし。
すべて四丁四方の花街(くるわ)にして青楼いづれも善尽くし、美尽くし、花麗なること言ふばかりなし。なかんづく九軒町(くけんちょう)の吉田屋・佐渡島町の高島屋を魁とす。また、通条(とほりすぢ)の青楼(ちゃや)多かる中に、折屋(をりや)は別(わけ)て宴席および庭の林泉万の調度料理向に至るまで他に超えたれば、遊客賞せずと言ふことなし。
三編の挿絵の2枚目は、新町廓中です。
■新町廓中
浪花の津は諸国の海舶輻輳(ふくそう)の地なれば、いにしへの江口・神崎(かんざき)もここにありて長柄(ながえ)の日傘(ひからかさ)・高足駄・紋日の道中・身請けの門出(もんで)・一笑千金の花の姿・月の夕も雪の朝も、蘭麝(らんじゃ)の香り濃(こまやか)にして、歌舞の声・糸竹の音間断なく賑はしきこといふばかりなし。
そのうへ、文政二年卯の三月より九軒町に桜を植ゑ、花の街(ちまた)に花を咲かせて、その光景を増すものから、賑はひむかしに十倍して繁昌なること類ひなし。
浪華の賑ひ「新町廓中」 (大阪市立図書館デジタルアーカイブ) |
続いて、「瓢箪町」があります。
■瓢箪町
新町の通りすぢを瓢箪町と号することは、廓御免(くるわごめん)の砌(みぎ)り、木村亦次郎といへる伏見の浪人願ひによって宮より花柳(くるわ)の長をつとめさせらる。この者、瓢箪の御馬印(おんむまじるし)を拝領して、常に玄関にかざりしゆゑ、かくはなづけそめしとなり。遊女の美艶・青楼の花麗またたぐひなく覚ゆ。かく有りがたき代に生れ、花さく春のあしたより、雪ちる冬の夕まで月雪花に納まれる御代をたのしみ、楽しむ姿の遊女となり、諸人(もろひと)の誠の情をもて、誠のなかにたのしみ遊ぶはひとへに君の御恵みと遊女直江が書きたるもげにさることと思ひやられぬ。
浪華の賑ひ「瓢箪町」 (大阪市立図書館デジタルアーカイブ) |
浪花百景にも、「新町店つき」と「新町廓中九軒夜桜」があります。
■新町店つき(国員画)
新町は京都島原、江戸吉原とともに近世三大遊里の一つで、大坂において唯一江戸幕府公認の遊廓があった所で、17世紀中頃明暦頃(1655頃)にそれまで市中に散在していた遊所を集めて成立しました。四周を溝で囲んだ売春地帯でしたが、中では男女間の様々なドラマが生まれ、井原西鶴「好色一代男」や近松門左衛門「夕霧名残の正月」をはじめ数多くの文芸作品で取り上げられました。
「見世付(みせつき)」とは遊女屋の表に面した格子の部屋をさし、客は格子越しに好みの女性を品定めしました。
最上級の太夫は教養・諸芸に通じた遊女で、客にも相応の格が求められました。夕霧太夫は諸国に知れ渡る新町の名妓でした。ここで格式高く豪遊することに皆が憧れを持ちました。
この地は明治5年(1872)の遊女解放令以降市街地化し、現在は昔の面影をほとんどとどめません。
浪花百景「新町店つき」 (大阪市立図書館デジタルアーカイブ) |
■新町廓中九軒夜桜(芳瀧画)
江戸時代大坂で唯一の公認遊廓のあった新町のうち、九軒町は玉造の九軒茶屋を移してきたことに因みます。西横堀川に架けられた新町橋を渡り、周囲を竹垣などで仕切られた新町の大門をくぐると、位の高い遊女を呼んで遊ぶ揚屋が並ぶ九軒町。文政2年(1819)3月新町振興策の一環として堤に桜が植えられたのが始まりで、ことに夜桜が有名でした。桜で飾り付けた最上位の遊女が桜並木のもとを練り歩く太夫道中をめあてに多数の見物客が詰めかけました。
浪花百景「新町廓中九軒夜桜」 (大阪市立図書館デジタルアーカイブ) |
現在新町北公園に桜並木が再現されており、北西角には「新町九軒桜堤の跡」の碑と、当時からあった加賀千代女の句碑「だまされて 来て誠なり はつ桜」も残されています。
天保年間発行の浪華名所獨案内を見ると、立売堀、西横堀、長堀に囲まれたところに「新町廓 九ケン通リスジ」が描かれています。廓の西には「スナバ」と「ヲグラヤ」があり、さらに西には、「鰹座」と「クワンヲン」があります。新町廓を通り抜け、観音を見て、長堀に沿って四ツ橋に出る赤い線が引かれ、観光モデルルートとなっています。
浪華名所獨案内(「津の清」蔵) |
新町南公園には、「ここに砂場ありき」の石碑があります。この辺りは、大阪城築城の際に砂や砂利などの資材が置かれた場所だったので、通称『砂場』と呼ばれていました。「二千年袖鑑(そでかがみ)」によると、秀吉が築城に着手した天正11(1583)年の翌年、そばを扱う店が創業したと記されており、営業形態を整えたそば店としては大阪の「いづみや」「津の国屋」が国内で一番古いといわれます。やがて店名をいわなくても「砂場」といえばそば店を指すようになり、店名も「砂場」に改められ、のちに「砂場」は東京に進出し、「藪」「更科」とともに江戸の三大そばの一つになったといわれます。
文化3年(1806)発行の「増修改正摂州大阪地図」を見ると、西長堀に架かる新町橋を渡ると正面に大門があり、溝が廻らされた遊郭が描かれています。遊郭の左上あたりに「九ケン丁」の文字があります。新町は大半が▲印の南組ですが、遊郭内には一部●印の北組が見られます。
増修改正摂州大阪地図(ラムゼイコレクションより) |
天保8年(1837)発行の天保新改攝州大坂全圖を見ると、溝は描かれていませんが、遊郭の部分の町割りが他と違っている様子が分かります。
天保新改攝州大坂全圖(国際日本文化研究センター蔵) |
大正13年発行の大阪市パノラマ地図では、西横堀の西を通る四ツ橋筋と長堀の北の通り(末吉橋通)に市電が走り、新町橋の傍には「新町一」停留所があります。遊郭が廃止され市街地化した後が描かれています。「よ」のマークは寄席です。
大阪市パノラマ地図(大阪くらしの今昔館蔵) |
昭和12年発行の大大阪観光地図を見ると、四ツ橋筋、あみだ池筋、末吉橋通に市電が走り、四ツ橋交差点の北東角に「電気科学館」があり、新町には「新町演舞場」の文字が見えます。その上には「九軒」の文字があります。その左側を見ると「わらぢや」の赤い文字が見えます。この地図を制作した「和楽路屋」の本社があったところです。
大大阪観光地図(国際日本文化研究センター蔵) |
今昔マップ3を利用して、地形図の変遷を見てみます。
左上の明治42年では、東西の長堀北通と南北の四ツ橋筋に市電が通っています。
右上の昭和7年では、あみだ池筋にも市電が通っています。それ以外の道路は、かつてのままの道幅で残っています。
左下の昭和30年では、白い部分が戦災で焼失した地域で、あたり一帯が戦災を受けたことが分かります。この時点では長堀、市電東西線、南北線ともに市電が残っています。
右下の昭和53年を見ると、長堀は埋め立てられ、中央分離帯のある幅の広い長堀通となっています。市電南北線は廃止され、新たに都市計画道路として、なにわ筋と新なにわ筋が通って幹線となっています。区画整理によって街区の整理がされ、かつての遊郭の痕跡は見えなくなっています。
明治42年~昭和53年の地形図(今昔マップ3より) |
現在の新町付近を写真で見てみましょう。
現在の新町橋跡(南東より) |
現在の新町橋跡(南西より) |
新町橋の顕彰碑 |
新町橋から西を見る |
四つ橋筋の新町1南交差点 |
新町1南交差点から東を見る 高速道路の位置に西横堀があった |
新町1南交差点から西を見る |
新町北公園 |
新町九軒桜堤の跡碑 |
碑と桜並木 |
「ここに砂場ありき」の碑がある新町南公園 |
今回は、「浪華の賑ひ」の「新町廓中」と「瓢箪町」をご紹介しました。今昔館8階展示室の床面には大きく拡大した「大阪市パノラマ地図」がありますので、昔の地図、現代の地図と見比べながらお楽しみください。
大阪市パノラマ地図についてはこちらをどうぞ。
≫ http://sumai-osaka.blogspot.jp/2015/08/blog-post_29.html
≫ http://konkon2001.blogspot.jp/2017/10/blog-post_10.html
〇特別展「世界遺産をつくった大工棟梁―中井大和守の建築絵図細見」が始まりました。
Architecture Drawings of Master Carpenters:
The Family Behind the World Heritage of Japan
令和2年2月22日(土)~4月5日(日)
2020.2.22~2020.4.5
臨時休館のお知らせ 【令和2年2月29日(土)~3月17日(火)】
中井大和守(初代・正清)は、江戸幕府の草創期に、二条城、江戸城、駿府城、名古屋城の天守や御殿をつくった大工棟梁で、元和5年(1619)に没しました。それから400年。中井正清とその子孫の建築作品の多くは火災などで失われましたが、現存するものは国宝や重要文化財に指定され、一部は世界遺産に登録されています。
重要文化財「大工棟梁中井家関係資料」(中井正知氏・中井正純氏蔵)の建築絵図は、中井家の建築作品の全容を伝えてくれる貴重な資料です。その内容は、城、武家屋敷、内裏(御所)、寺院、神社、茶室などの建物を網羅し、建物の平面図や立面図だけでなく、儀式図、庭園図、起こし絵図など多彩です。これらの絵図は、破損や老朽化が進んできたので、平成25年(2013)から文化庁の指導監督の下で国庫補助事業として保存修理を行ってきました。この事業は住友財団の助成対象にも選定されました。
特別展「世界遺産をつくった大工棟梁―中井大和守の建築絵図細見」は、この修理でよみがえった建築絵図を公開し、同時に中井家資料の修理技法を紹介します。
チラシの拡大版は、こちらからどうぞ。 ⇒http://konjyakukan.com/kikakuimage/kara1241510494.pdf
「中井大和守正清肖像」 |
「洛東清水寺惣絵図」(部分) |
「豊臣時代大坂城本丸指図」 |
〇3月7日(土)に予定されていました特別展関連イベント
講演会「大修理‼建築絵図ビフォーアフター 文化財をよみがえらせる日本の修理技術」は、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、中止になりました。
〇今週のイベント・ワークショップ
臨時休館のお知らせ 【令和2年2月29日(土)~3月17日(火)】
今昔館は毎週火曜日が休館日です。
カレンダーは、こちらです。
≫ http://konjyakukan.com/kaikanjikan.php?nextm=202002
2月26日(水)~29日(土)、3月2日(月)、4日(水)~7日(土)
町家ツアー
住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」の9階「なにわ町家の歳時記」では、楽しいガイドツアーをおこなっております。
当日ご来館の方は、自由に参加していただけます。
※団体でお越しの場合は、事前にお申し込みください。
開催日:平日・土曜日
時 間:①11:30~、②14:30~
【イベント、ワークショップ、および町家ツアー中止のお知らせ】
3月20日(金)までのイベント、ワークショップ、および、日曜日・祝日の町家衆による町家ツアーは、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、中止することになりました。
大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからご覧ください。
≫ http://konjyakukan.com/index.html
「今週の今昔館」の第1回から第52回までは、「古地図で愉しむ大阪まち物語」に掲載しています。
「今週の今昔館」の第1回はこちらからご覧ください。
≫ http://osakakochizu.blogspot.com/2016/08/blog-post_5.html
「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。
「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。
≫http://www.sumai-machi-net.com/
初めての方はこちらからどうぞ。
≫http://www.sumai-machi-net.com/howtouse
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