大阪くらしの今昔館を紹介する動画作成プロジェクトが「2021年度都市住宅学会賞・業績賞」を受賞しました!
令和3年5月31日、大阪くらしの今昔館を紹介する動画作成プロジェクトが「2021年度都市住宅学会賞・業績賞」を受賞しました。
受賞対象は「歴史博物館から発信する大阪の町家と住文化の魅力-子ども・若者・外国人に町家と住文化を理解してもらうための動画制作プロジェクト-」です。この動画制作プロジェクトは、2018年度に申請者らからなる博物館住まい学習研究会が「建築技術教育普及センター」の助成を受け、大阪くらしの今昔館の9階常設展示「商家の賑わい」で撮影・編集し、2019年3月に完成しました。ドイツ人留学生のザビ-ネさんがナビゲートし、今昔館ボランティア「町家衆」の皆さんが江戸時代の住民に扮して出演しています。その後、2019年7月からYouTubeで配信しました。
授賞理由・受賞者・動画の詳細は、以下のとおりです。
・審査委員会の講評(授賞理由)
本事業は、「大阪くらしの今昔館」の江戸時代の町並み展示を活用して、大阪の町家の建築と生活文化を伝える教育動画を制作し、YouTubeで配信するものである。変化した現在の町家でなく、江戸時代当時の建築と生活が学べる点で他の動画にはない独創性を備えている。また、制作された動画は教育効果の高い内容に加えて、外国人留学生がナビゲートする演出など様々な工夫がされており高く評価できる。本動画は、海外旅行者や社会科見学等の団体見学者に対する事前学習の活用が意図されているが、今後のITCを活用した授業の優れた教材の提供、コロナ禍における博物館の情報発信の面でも先駆的な試みであり、日本の伝統的な生活文化を世界に発信するツールとして今後の展開が期待できる。以上より、本事業は、当学会の業績賞に相応しいと認められる。
・受賞者
大阪くらしの今昔館 前館長 谷直樹氏
大阪教育大学教授 碓田智子氏
大阪くらしの今昔館 特別研究員 岩間香氏
大阪市住宅供給公社 渡邊望氏
大阪くらしの今昔館を紹介する学習ビデオは、「なにわの町並み」、「町家の商い」、「町家のくらしとおもてなし」、「裏長屋のくらし」の4編(それぞれ日本語字幕版と英語字幕版)で構成されています。
日本語字幕版と英語字幕版の動画はこちらをご覧ください↓↓↓
大阪くらしの今昔館 「商家の賑わい」学習ビデオ【日本語・English】
〇淀川両岸一覧にみる江戸時代の大坂(50)
琵琶湖から大阪湾へと流れる淀川は、人の流れ、物の流れを担う交通の大動脈として機能してきただけでなく、人々の暮らしと大きく関わり、政治・経済・文化にも大きな影響を与えてきました。
「淀川両岸一覧」は、江戸時代の大坂から京都までの淀川沿いの名所旧跡を挿絵を添えて紹介しています。このシリーズでは、淀川両岸一覧(下り船之巻)に沿って、京都から大坂までの淀川右岸(川の流れから見て右側)沿いの風景を訪ねていきます。
シリーズ50回目の今回は「江口」をご紹介します。京都伏見を出発した三十石船の下り船も、ようやく大阪市内にやってきました。江口は古来淀川の河口にあたり、川舟と海船とを乗り換えた場所で、古代以来栄えた淀川水運の要衝でした。
■江口、歌墳、君堂
柱本から4km余りにわたる鳥飼堤を右に見て、神崎川の分岐点を過ぎると江口です。江口の地名は既に「日本書紀」に見え、舒明天皇4年には、難波へ到着した唐からの使節を大伴馬養を遣わして、江口で出迎えたとあります。江口とは難波江口の略で、難波江の入口を意味し、古代、中世はここが淀川随一の港で、西国から京への上り客はここで川船に乗り換えましたし、京からの下り客はここで宿を取ったと言われています。こういう繁華の地に遊里が発達するのは世の常です。
本文には歌墳(うたづか)について、次のような解説があります。
≪同村南の堤にあり。「新古今」贈答の和歌を石刻して建つる。北の方は西行法師の歌、南の方は遊女妙の歌なり。
「新古今」
天王寺へまゐり侍りけるに、にはかに雨ふりければ江口にやどをかりけるに、かし侍らざりければ読み侍りける
世の中をいとふまでこそかたからめ仮りの宿りををしむ君かな 西行法師
返し
世をいとふ人とし聞けば仮りの宿に心とむなと思ふばかりぞ 遊女妙≫
「新古今和歌集」に残されている西行法師と遊女妙(たえ・江口の君)の問答歌です。謡曲「江口」の題材ともなっています。江口の宿で雨宿りをしようとした西行が、世捨て人が遊里などでお泊まりなさるなとたしなめられる内容です。後に妙は出家し、この地に寂光寺を創建したことになっていますが、この寺の本堂には彼女を象った普賢菩薩像が安置され、君堂と呼ばれています。
絵は淀川右岸の江口あたりの眺めを描いています。絵の右に「君堂」とあるのが宝林山寂光寺普賢院、通称、江口君堂です。君堂から見て南、絵の左に「うたづか」があります。これは西行と妙の贈答歌を刻んだ石碑で、江戸時代には絵に見えるとおり堤の傍に建っていました。明治期の淀川改修に際して、現在ある君堂の境内に移され、歌墳として残っています。
この江口について、本文は次のように解説しています。
≪右神崎川の南の岸にあり。くはしくは難波江口なるべし。いにしへこの所は淀の川尻にして、難波江のはじめなれば江口といふなり。西国より都におもむく船、ここにつどひて、これより川舟にのりかへ上るなり。さるほど海舶ここに泊まる湊なれば、繁花の地にして遊女もあまたこれあり、賑はしかりしなり。中頃泉州堺の津にかはり、天正年間より大坂海内の大湊となれり。今は農家僅かにありて耕作の地となれり。≫
江口は淀川と神崎川とが分岐する中洲の﨑にあたり、「難波江」の「口」ゆえに、この名がついたといいます。「源氏物語」や「平家物語」の時代、京から西をめざす際には、船で淀川を下ることが多く、とくに西国へと向かう、逆に西国から京をめざす場合には、船を乗り換える必要がありました。つまり、川用と海用の船を乗り換えるための湊として、江口は栄えたのです。ゆえに、船客をもてなす遊女たちがいました。
しかし、鎌倉時代中頃以降、特に天正年間以降はその役割を堺が果たすようになり、「淀川両岸一覧」が出版された頃には、江口は「耕作の地」すなわち田園地帯に変わっていたのです。
絵の左、賛の発句は、魯白と呉逸の作です。
草葉にも心とめずや飛ぶほたる 魯白
君堂やぬるはいとはぬ花の雨 呉逸
ほたるや花ということばは、かつての遊女たちの姿に重ねているのでしょうか。
本文には、次のとおり解説があります。一部重複しますが、全文掲載します。
■一津屋
輪道村の下にあり
■一津屋渡口
島下郡一ツ屋村より河州茨田郡八番村に淀川をわたす舟わたしなり。渡しの長さ三百三十間といふ。下鳥飼よりこの所まで水上およそ二十五丁。
■神崎川
一津屋村の傍にあり。淀川の流れ西に分かれ、吹田・神崎を歴て大和田をめぐり海に入る。いにしへは江口までも唐船入りし体旧記に見えたり。
■江口渡口
右神崎川をわたす。一津屋村より江口村への舟わたしなり。江口村の郷保(しょうや)田中氏に、元亀年中の古牒(こちょう)あり。その文に曰く
渡舟之儀昼夜令馳走之条、当村之事乱妨狼藉一切非分除之、若猥儀在之ハ可成敗之状如件
元亀元年九月 信長判
江口村船頭中
■江口
右神崎川の南の岸にあり。くはしくは難波江口なるべし。いにしへこの所は淀の川尻にして、難波江のはじめなれば江口といふなり。西国より都におもむく船、ここにつどひて、これより川舟にのりかへ上るなり。さるほど海舶ここに泊まる湊なれば、繁花の地にして遊女もあまたこれあり、賑はしかりしなり。中頃泉州堺の津にかはり、天正年間より大坂海内の大湊となれり。今は農家僅かにありて耕作の地となれり。
この所より吹田への街道あり。ただし吹田は川の北なり。「続日本紀」に曰く「天平宝字三年十二月、高麗の使高南甲、難波の江口に到る」と云々。これ海舶ここに通ひし証なり。一津屋よりここまで二丁余
菅家後集
川末の江口に立てる芦鶴(あしたづ)のなくなる声を我にきかせよ 菅家
■君堂
同村にあり。日蓮宗宝林山寂光寺普賢院と号す。女僧(あま)住職す。按ずるに、江口の謡の文儀よりして後世いとなみし仏場なるべし。
江口君像 本堂に安ず。長(みたけ)一尺ばかり、座像。その余普賢菩薩の尊像を安ず。また什宝に西行真蹟の和歌あり。
山深くさこそ心はかよふともすまで哀れはしらん物かは 西行
■江口城墟
江口の村甲(しょうや)田中氏の家その古跡なりとぞ。天文年中、三好宗三ここに拠るといふ。
■歌墳
同村南の堤にあり。「新古今」贈答の和歌を石刻して建つる。北の方は西行法師の歌、南の方は遊女妙の歌なり。
「新古今」
天王寺へまゐり侍りけるに、にはかに雨ふりければ江口にやどをかりけるに、かし侍らざりければ読み侍りける
世の中をいとふまでこそかたからめ仮りの宿りををしむ君かな 西行法師
返し
世をいとふ人とし聞けば仮りの宿に心とむなと思ふばかりぞ 遊女妙
■江口尼古蹟
同村をいふ。旧趾詳らかならず。尼の事は「西行撰集抄」にくはしく見えたり。ここに略す。
摂津名所図会には「江口里、君塚」と「江口君」の挿絵があります。
■江口里、君塚
むかしこの地は淀の川尻、大江の口なり。西国の入船ここにつどひて、これより川船にて登るなり。泊船の所なれば遊女も多くて賑はしき水門(みなと)なり。中頃より泉州堺の津へ変はり、天正よりまた大坂海内の大湊となれり。江口の君のことは西行上人の「撰集抄」のみにて外に見るものなし。ここの君堂は江口の謡によりて建つるなるべし。
挿絵の左端には、大道社が描かれています。
■江口君
賛の発句は魯白の作で、「淀川両岸一覧」と同じ句です。
草葉にもこころとめずや飛ぶほたる 魯白
挿絵の右には遊女妙(たえ・江口の君)の姿が、左下には、雨中、遊女妙を訪ねる西行の姿が描かれています。
次に、大阪くらしの今昔館が所蔵する「よと川の図」の江口付近を見てみましょう。絵の左手が上流、右手が下流になります。絵の奥側が淀川の左岸で、上部・左端から「七番」「八番」、奥に「四ばん」そこから右に「一里つか」「守口」があり、少し離れて「土居」「いま市」が見えます。守口宿はかぎ型に描かれていて、実際の姿と合っています。
■江口、歌墳、君堂
柱本から4km余りにわたる鳥飼堤を右に見て、神崎川の分岐点を過ぎると江口です。江口の地名は既に「日本書紀」に見え、舒明天皇4年には、難波へ到着した唐からの使節を大伴馬養を遣わして、江口で出迎えたとあります。江口とは難波江口の略で、難波江の入口を意味し、古代、中世はここが淀川随一の港で、西国から京への上り客はここで川船に乗り換えましたし、京からの下り客はここで宿を取ったと言われています。こういう繁華の地に遊里が発達するのは世の常です。
本文には歌墳(うたづか)について、次のような解説があります。
≪同村南の堤にあり。「新古今」贈答の和歌を石刻して建つる。北の方は西行法師の歌、南の方は遊女妙の歌なり。
「新古今」
天王寺へまゐり侍りけるに、にはかに雨ふりければ江口にやどをかりけるに、かし侍らざりければ読み侍りける
世の中をいとふまでこそかたからめ仮りの宿りををしむ君かな 西行法師
返し
世をいとふ人とし聞けば仮りの宿に心とむなと思ふばかりぞ 遊女妙≫
淀川両岸一覧下船之巻「江口」 (大阪市立図書館デジタルアーカイブ) |
「新古今和歌集」に残されている西行法師と遊女妙(たえ・江口の君)の問答歌です。謡曲「江口」の題材ともなっています。江口の宿で雨宿りをしようとした西行が、世捨て人が遊里などでお泊まりなさるなとたしなめられる内容です。後に妙は出家し、この地に寂光寺を創建したことになっていますが、この寺の本堂には彼女を象った普賢菩薩像が安置され、君堂と呼ばれています。
絵は淀川右岸の江口あたりの眺めを描いています。絵の右に「君堂」とあるのが宝林山寂光寺普賢院、通称、江口君堂です。君堂から見て南、絵の左に「うたづか」があります。これは西行と妙の贈答歌を刻んだ石碑で、江戸時代には絵に見えるとおり堤の傍に建っていました。明治期の淀川改修に際して、現在ある君堂の境内に移され、歌墳として残っています。
この江口について、本文は次のように解説しています。
≪右神崎川の南の岸にあり。くはしくは難波江口なるべし。いにしへこの所は淀の川尻にして、難波江のはじめなれば江口といふなり。西国より都におもむく船、ここにつどひて、これより川舟にのりかへ上るなり。さるほど海舶ここに泊まる湊なれば、繁花の地にして遊女もあまたこれあり、賑はしかりしなり。中頃泉州堺の津にかはり、天正年間より大坂海内の大湊となれり。今は農家僅かにありて耕作の地となれり。≫
江口は淀川と神崎川とが分岐する中洲の﨑にあたり、「難波江」の「口」ゆえに、この名がついたといいます。「源氏物語」や「平家物語」の時代、京から西をめざす際には、船で淀川を下ることが多く、とくに西国へと向かう、逆に西国から京をめざす場合には、船を乗り換える必要がありました。つまり、川用と海用の船を乗り換えるための湊として、江口は栄えたのです。ゆえに、船客をもてなす遊女たちがいました。
しかし、鎌倉時代中頃以降、特に天正年間以降はその役割を堺が果たすようになり、「淀川両岸一覧」が出版された頃には、江口は「耕作の地」すなわち田園地帯に変わっていたのです。
絵の左、賛の発句は、魯白と呉逸の作です。
草葉にも心とめずや飛ぶほたる 魯白
君堂やぬるはいとはぬ花の雨 呉逸
ほたるや花ということばは、かつての遊女たちの姿に重ねているのでしょうか。
本文には、次のとおり解説があります。一部重複しますが、全文掲載します。
■一津屋
輪道村の下にあり
■一津屋渡口
島下郡一ツ屋村より河州茨田郡八番村に淀川をわたす舟わたしなり。渡しの長さ三百三十間といふ。下鳥飼よりこの所まで水上およそ二十五丁。
■神崎川
一津屋村の傍にあり。淀川の流れ西に分かれ、吹田・神崎を歴て大和田をめぐり海に入る。いにしへは江口までも唐船入りし体旧記に見えたり。
■江口渡口
右神崎川をわたす。一津屋村より江口村への舟わたしなり。江口村の郷保(しょうや)田中氏に、元亀年中の古牒(こちょう)あり。その文に曰く
渡舟之儀昼夜令馳走之条、当村之事乱妨狼藉一切非分除之、若猥儀在之ハ可成敗之状如件
元亀元年九月 信長判
江口村船頭中
■江口
右神崎川の南の岸にあり。くはしくは難波江口なるべし。いにしへこの所は淀の川尻にして、難波江のはじめなれば江口といふなり。西国より都におもむく船、ここにつどひて、これより川舟にのりかへ上るなり。さるほど海舶ここに泊まる湊なれば、繁花の地にして遊女もあまたこれあり、賑はしかりしなり。中頃泉州堺の津にかはり、天正年間より大坂海内の大湊となれり。今は農家僅かにありて耕作の地となれり。
この所より吹田への街道あり。ただし吹田は川の北なり。「続日本紀」に曰く「天平宝字三年十二月、高麗の使高南甲、難波の江口に到る」と云々。これ海舶ここに通ひし証なり。一津屋よりここまで二丁余
菅家後集
川末の江口に立てる芦鶴(あしたづ)のなくなる声を我にきかせよ 菅家
■君堂
同村にあり。日蓮宗宝林山寂光寺普賢院と号す。女僧(あま)住職す。按ずるに、江口の謡の文儀よりして後世いとなみし仏場なるべし。
江口君像 本堂に安ず。長(みたけ)一尺ばかり、座像。その余普賢菩薩の尊像を安ず。また什宝に西行真蹟の和歌あり。
山深くさこそ心はかよふともすまで哀れはしらん物かは 西行
■江口城墟
江口の村甲(しょうや)田中氏の家その古跡なりとぞ。天文年中、三好宗三ここに拠るといふ。
■歌墳
同村南の堤にあり。「新古今」贈答の和歌を石刻して建つる。北の方は西行法師の歌、南の方は遊女妙の歌なり。
「新古今」
天王寺へまゐり侍りけるに、にはかに雨ふりければ江口にやどをかりけるに、かし侍らざりければ読み侍りける
世の中をいとふまでこそかたからめ仮りの宿りををしむ君かな 西行法師
返し
世をいとふ人とし聞けば仮りの宿に心とむなと思ふばかりぞ 遊女妙
■江口尼古蹟
同村をいふ。旧趾詳らかならず。尼の事は「西行撰集抄」にくはしく見えたり。ここに略す。
摂津名所図会には「江口里、君塚」と「江口君」の挿絵があります。
■江口里、君塚
むかしこの地は淀の川尻、大江の口なり。西国の入船ここにつどひて、これより川船にて登るなり。泊船の所なれば遊女も多くて賑はしき水門(みなと)なり。中頃より泉州堺の津へ変はり、天正よりまた大坂海内の大湊となれり。江口の君のことは西行上人の「撰集抄」のみにて外に見るものなし。ここの君堂は江口の謡によりて建つるなるべし。
挿絵の左端には、大道社が描かれています。
摂津名所図会「江口里、君塚」 (大阪市立図書館デジタルアーカイブ) |
■江口君
賛の発句は魯白の作で、「淀川両岸一覧」と同じ句です。
草葉にもこころとめずや飛ぶほたる 魯白
挿絵の右には遊女妙(たえ・江口の君)の姿が、左下には、雨中、遊女妙を訪ねる西行の姿が描かれています。
摂津名所図会「江口君」 (大阪市立図書館デジタルアーカイブ) |
次に、大阪くらしの今昔館が所蔵する「よと川の図」の江口付近を見てみましょう。絵の左手が上流、右手が下流になります。絵の奥側が淀川の左岸で、上部・左端から「七番」「八番」、奥に「四ばん」そこから右に「一里つか」「守口」があり、少し離れて「土居」「いま市」が見えます。守口宿はかぎ型に描かれていて、実際の姿と合っています。
絵の手前側が淀川の右岸で、左から「輪道村」「一つや」神崎川をはさんで「江口」「平田」の文字が見えます。輪道の堤防には曳き舟をする水主の姿が、平田の前には三十石船が二艘描かれています。
地形図で江口周辺の様子をみてみましょう。明治41年陸地測量部地図を見ると、淀川から神崎川が分かれるところに江口の集落があります。集落の南にあるお寺が江口の君堂です。明治30~40年代の淀川改修工事によって新しく堤防が築かれたため、淀川から神崎川への船の通行はできなくなっています。
国土地理院地図に「明治時代の低湿地」という図があり、明治20年ころの河川や池、水田などの様子がわかります。淀川の改修工事以前には、淀川から神崎川へ直接船の行き来ができ、その中継地点に江口の里があったことがわかります。
今昔マップを利用して明治41年陸地測量部地図(左)、最新の地理院地図に色別標高図を重ねたもの(右)を見比べてみます。
1枚目は江口付近の広域を表しています。右上から川沿いに和道・一津屋・江口・北大道(辻堂)・南大道が並びます。対岸には、大庭七番・八番・北十番・南十番・下島が見えます。
右側の地理院地図では、赤色の線は国道を、黄色の線は府道、緑色は高速道路を示しています。淀川に架かる橋は、右上が鳥飼大橋、左下が豊里大橋です。淀川はこの付近で南へ蛇行し、豊里大橋付近で再び西へ蛇行しています。
「よと川の図」の江口付近(大阪くらしの今昔館蔵) |
地形図で江口周辺の様子をみてみましょう。明治41年陸地測量部地図を見ると、淀川から神崎川が分かれるところに江口の集落があります。集落の南にあるお寺が江口の君堂です。明治30~40年代の淀川改修工事によって新しく堤防が築かれたため、淀川から神崎川への船の通行はできなくなっています。
明治42年陸地測量部地図 (今昔マップ3より) |
国土地理院地図に「明治時代の低湿地」という図があり、明治20年ころの河川や池、水田などの様子がわかります。淀川の改修工事以前には、淀川から神崎川へ直接船の行き来ができ、その中継地点に江口の里があったことがわかります。
国土地理院地図(明治時代の低湿地) |
今昔マップを利用して明治41年陸地測量部地図(左)、最新の地理院地図に色別標高図を重ねたもの(右)を見比べてみます。
1枚目は江口付近の広域を表しています。右上から川沿いに和道・一津屋・江口・北大道(辻堂)・南大道が並びます。対岸には、大庭七番・八番・北十番・南十番・下島が見えます。
右側の地理院地図では、赤色の線は国道を、黄色の線は府道、緑色は高速道路を示しています。淀川に架かる橋は、右上が鳥飼大橋、左下が豊里大橋です。淀川はこの付近で南へ蛇行し、豊里大橋付近で再び西へ蛇行しています。
2枚目は江口付近を拡大した図です。淀川の改修工事によって堤防が築かれ、神崎川への船の通行はできなくなっています。江口の集落の南東の端にみえる寺院の記号が江口君堂です。
次に、4分割により明治41年以降、4つの時代の江口の里周辺の変遷を見てみます。
左上の明治41年では、江口の集落の周りはほとんどが水田でした。
右上の昭和4年では、道路がいくつか整備されていますが、大半は農地です。「江口町」の文字が見えます。
左下の昭和42年を見ると、「南江口町」の表示となり、南に「北大道町」、西に「小松」の市街地ができています。地図の左上を新幹線が通っています。
右下は平成7年の地形図ですが、住居表示の整理により「南江口三丁目」「瑞光五丁目」「大桐五丁目」「小松五丁目」といった表示に変更されています。全体に市街地化が進んでいます。
大阪市内の史跡巡りによく利用している、江戸時代天保年間発行の「浪華名所獨案内」、文化3年(1806)発行の「増修改正摂州大阪地図」、天保8年(1837)発行の「天保新改攝州大坂全圖」、大正13年(1924)発行の「大阪市パノラマ地図」では、淀川と中津川の分岐点よりも北に位置する江口付近は地図の範囲に入っていません。
昭和12年発行の大大阪観光地図を見ると、江口付近は大正14年の第二次市域拡張によって市域に含まれることになり、大阪市の北東の隅に江口が描かれています。境界線が3種類に書き分けられています。1つは摂津と河内の国境、1つは市と河内の国の境、1つは市と郡の境(摂津国の中)です。ここには出ていませんが区の境(大阪市の中)は別の表示となっています。この時代でも「国境」が表示されていることは興味深いことです。
浪花百景には、「江口君堂」があります。
■江口君堂(国員画)
江口は古来淀川の河口にあたり川舟と海船とを乗り換えた場所で、古代以来栄えた淀川水運の要衝。平安期から天皇公家らの社寺参拝にも利用され、往来の旅人を相手にした遊興地として繁栄しました。
当地の遊女は古典の教養や今様などの諸芸に通じて貴人との交流も深く、後鳥羽上皇も江口の遊女との神楽や今様を楽しんだといわれます。
西行法師が四天王寺詣の道中、遊女妙と歌問答の後に心を通わせたといわれ、謡曲「江口」によって広く知られています。のちに妙は出家、草創したといわれる寂光寺は、一般に江口の君堂と呼ばれ親しまれました。
現在の建物は江戸時代のもので、昔は淀川を往来する船からも望めましたが、現在は護岸にさえぎられています。
画面を左右に横切っている綱は、上り船を堤から引き上げる曳き綱です。この綱が描かれているだけで、この辺りは流れが急で、棹で差して上ることが難しいことを感じさせてくれます。
現在の江口付近の状況を写真で見てみましょう。淀川の堤防から降りたところに「江口の里」の石碑があり、その前に江口の君堂(寂光寺)のお堂や鐘楼が並んでいます。境内には君塚、西行塚、歌塚、謡曲「江口」と贈答歌の説明板、句碑などがあります。
境内掲示の由緒には、「当寺は摂津の国中島村大字江口に在り、宝林山普賢院寂光寺と号すも、彼の有名な江口の君これを草創せしを以って、一に江口の君堂と称す。
そもそも江口の君とは平資盛の息女にして、名を妙の前と言い平家没落後に授乳母なる者の郷里、即ち江口の里に寓せしが、星移り月は経るも、わが身に幸巡り来らざるを嘆き、後遂に往来の船に棹の一ふしを込め、秘かに慰さむ浅ましき遊女となりぬ。・・・」とあります。かなりの長文です。
境内にある西行と妙の歌碑(歌塚)は江戸時代の好事家が淀川の堤防上に建てたもので、明治の淀川の改修工事で境内に移築されました。右面に西行法師の歌、左面に遊女妙の返歌が刻まれています。一夜の宿を断られた西行が、「悩み多い世の中を嫌って出家するところまでは難しいだろうが、仮の宿を貸す事さえも惜しむのですか」と女になじったところ、女(遊女妙)から、「あなたは悩み多いこの世を嫌って出家なさっている人とお見受けしますので仮の宿に執着なさるなと思うだけなのです」と、軽妙に応じ返してきたものです。
境内には、七世文字太夫の功績をたたえる「常磐津塚」もあります。
鐘楼にある鐘は、淀川を往来する川船に美しい余韻を響かせ、船人たちも思わず襟を正したといわれます。現在のものは再鋳されたものですが、「くまもなき月の江口のシテぞこれ 虚子」をはじめ、高名な七人の俳人の句が刻まれ、俗に俳句鐘と呼ばれています。
当地で催される流燈会(お盆の灯籠流し)を詠んだ阿波野青畝句碑「流燈の帯の崩れて海に乗る」もあります。
江口の里の傍の堤防に上がり、上流側を見るとモノレールが走る鳥飼大橋の白いアーチ型のトラスが見えます。下流側は川が蛇行しているため、豊里大橋は見えません。河川敷はグラウンドとなっています。
江口の里から北東へ約600mのところに、国土交通省一津屋樋門があります。淀川本流から神崎川が分岐する地点です。水量の制御ができるようになっていますが、船の通行はできません。
今回は、「淀川両岸一覧下り船の巻」の「江口」をご紹介しました。
〇住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」とは?
住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」は2001年4月26日に開館しました。今年で開館20周年を迎えました。
前館長の谷直樹先生と新館長の増井正哉先生がこれまでの道のりを振り返り、これからの課題について語り合う動画が公開されています。
こちらからどうぞ。
⇒ https://www.youtube.com/watch?v=kFW0qbelLNo
ここは「住まいの歴史と文化」をテーマにした、日本で初めての專門ミュージアムです。
住まい情報センターのビルの9階「なにわ町家の歳時記」は、江戸時代のフロア。天保初年(1830年代前半)の大坂の町並みを実物大で復元しています。
8階「モダン大阪パノラマ遊覧」は、明治・大正・昭和のフロアで近代大阪の住まいと暮らしを模型や資料で展示。
さらに企画展示室では特別展や企画展を開催しています。
〇大阪くらしの今昔館は、臨時休館しています
【令和3年4月25日(日)~ 当面の間 】
新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく緊急事態宣言の発令に伴い、4月25日(日)~ 当面の間、臨時休館しています。
※6月19日追記、6月21日より再開しています。
〇企画展「重岡良子 花鳥画展 刻を紡ぐ 写生から装飾 そして琳派を生きる」も臨時休館しています
会期は、令和3年4月17日(土)~6月27日(日)(会期延長)
4月25日(日)~ 当面の間は臨時休館
※6月19日追記、6月21日より再開しています。
大阪くらしの今昔館では現代日本画家の個展「重岡良子 花鳥画展 刻を紡ぐ」を開催します。
日本の絵画は住まいの中で、座敷における「しつらい」として親しまれてきました。中でも四季の彩りを表す花鳥画は古くから愛好され、現代においても人気のある画題のひとつです。
重岡良子氏は自然の中に身を置いて花や鳥などの動植物を写生し、その心を50年にわたって描き表してきました。また、京都で培われた「琳派」に着想を得て「IMA琳派」として装飾性を持たせた作品も発表されています。今回は屏風を中心に代表的な作品を披露します。
春から初夏にかけて草木が青々とするこの時期に、日本画のもつ繊細かつ優美な色彩の織り成す世界をご堪能ください。
【インタビュー動画】重岡良子 花鳥画展 刻を紡ぐ
こちらからどうぞ
今昔マップより江口付近(広域) |
今昔マップより江口付近 |
次に、4分割により明治41年以降、4つの時代の江口の里周辺の変遷を見てみます。
左上の明治41年では、江口の集落の周りはほとんどが水田でした。
右上の昭和4年では、道路がいくつか整備されていますが、大半は農地です。「江口町」の文字が見えます。
明治41年から平成7年の地形図 (今昔マップ3より) |
左下の昭和42年を見ると、「南江口町」の表示となり、南に「北大道町」、西に「小松」の市街地ができています。地図の左上を新幹線が通っています。
右下は平成7年の地形図ですが、住居表示の整理により「南江口三丁目」「瑞光五丁目」「大桐五丁目」「小松五丁目」といった表示に変更されています。全体に市街地化が進んでいます。
大阪市内の史跡巡りによく利用している、江戸時代天保年間発行の「浪華名所獨案内」、文化3年(1806)発行の「増修改正摂州大阪地図」、天保8年(1837)発行の「天保新改攝州大坂全圖」、大正13年(1924)発行の「大阪市パノラマ地図」では、淀川と中津川の分岐点よりも北に位置する江口付近は地図の範囲に入っていません。
昭和12年発行の大大阪観光地図を見ると、江口付近は大正14年の第二次市域拡張によって市域に含まれることになり、大阪市の北東の隅に江口が描かれています。境界線が3種類に書き分けられています。1つは摂津と河内の国境、1つは市と河内の国の境、1つは市と郡の境(摂津国の中)です。ここには出ていませんが区の境(大阪市の中)は別の表示となっています。この時代でも「国境」が表示されていることは興味深いことです。
大大阪観光地図(国際日本文化研究センター蔵) |
浪花百景には、「江口君堂」があります。
■江口君堂(国員画)
江口は古来淀川の河口にあたり川舟と海船とを乗り換えた場所で、古代以来栄えた淀川水運の要衝。平安期から天皇公家らの社寺参拝にも利用され、往来の旅人を相手にした遊興地として繁栄しました。
当地の遊女は古典の教養や今様などの諸芸に通じて貴人との交流も深く、後鳥羽上皇も江口の遊女との神楽や今様を楽しんだといわれます。
西行法師が四天王寺詣の道中、遊女妙と歌問答の後に心を通わせたといわれ、謡曲「江口」によって広く知られています。のちに妙は出家、草創したといわれる寂光寺は、一般に江口の君堂と呼ばれ親しまれました。
現在の建物は江戸時代のもので、昔は淀川を往来する船からも望めましたが、現在は護岸にさえぎられています。
画面を左右に横切っている綱は、上り船を堤から引き上げる曳き綱です。この綱が描かれているだけで、この辺りは流れが急で、棹で差して上ることが難しいことを感じさせてくれます。
浪花百景「江口君堂(国員画)」 (大阪市立図書館デジタルアーカイブ) |
現在の江口付近の状況を写真で見てみましょう。淀川の堤防から降りたところに「江口の里」の石碑があり、その前に江口の君堂(寂光寺)のお堂や鐘楼が並んでいます。境内には君塚、西行塚、歌塚、謡曲「江口」と贈答歌の説明板、句碑などがあります。
江口の里 |
江口君堂 |
君塚と西行塚 |
謡曲「江口」と贈答歌 |
境内掲示の由緒には、「当寺は摂津の国中島村大字江口に在り、宝林山普賢院寂光寺と号すも、彼の有名な江口の君これを草創せしを以って、一に江口の君堂と称す。
そもそも江口の君とは平資盛の息女にして、名を妙の前と言い平家没落後に授乳母なる者の郷里、即ち江口の里に寓せしが、星移り月は経るも、わが身に幸巡り来らざるを嘆き、後遂に往来の船に棹の一ふしを込め、秘かに慰さむ浅ましき遊女となりぬ。・・・」とあります。かなりの長文です。
境内掲示の由緒 |
境内にある西行と妙の歌碑(歌塚)は江戸時代の好事家が淀川の堤防上に建てたもので、明治の淀川の改修工事で境内に移築されました。右面に西行法師の歌、左面に遊女妙の返歌が刻まれています。一夜の宿を断られた西行が、「悩み多い世の中を嫌って出家するところまでは難しいだろうが、仮の宿を貸す事さえも惜しむのですか」と女になじったところ、女(遊女妙)から、「あなたは悩み多いこの世を嫌って出家なさっている人とお見受けしますので仮の宿に執着なさるなと思うだけなのです」と、軽妙に応じ返してきたものです。
妙女・西行法師歌碑(歌塚) |
境内には、七世文字太夫の功績をたたえる「常磐津塚」もあります。
常磐津塚 |
鐘楼にある鐘は、淀川を往来する川船に美しい余韻を響かせ、船人たちも思わず襟を正したといわれます。現在のものは再鋳されたものですが、「くまもなき月の江口のシテぞこれ 虚子」をはじめ、高名な七人の俳人の句が刻まれ、俗に俳句鐘と呼ばれています。
鐘楼 |
当地で催される流燈会(お盆の灯籠流し)を詠んだ阿波野青畝句碑「流燈の帯の崩れて海に乗る」もあります。
阿波野青畝句碑 |
江口の里の傍の堤防に上がり、上流側を見るとモノレールが走る鳥飼大橋の白いアーチ型のトラスが見えます。下流側は川が蛇行しているため、豊里大橋は見えません。河川敷はグラウンドとなっています。
堤防より淀川上流を望む |
堤防より淀川下流を望む |
江口の里から北東へ約600mのところに、国土交通省一津屋樋門があります。淀川本流から神崎川が分岐する地点です。水量の制御ができるようになっていますが、船の通行はできません。
一津屋樋門(神崎川の分岐点) |
一津屋樋門と神崎川 |
現在の神崎川 |
今回は、「淀川両岸一覧下り船の巻」の「江口」をご紹介しました。
〇住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」とは?
住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」は2001年4月26日に開館しました。今年で開館20周年を迎えました。
前館長の谷直樹先生と新館長の増井正哉先生がこれまでの道のりを振り返り、これからの課題について語り合う動画が公開されています。
こちらからどうぞ。
⇒ https://www.youtube.com/watch?v=kFW0qbelLNo
ここは「住まいの歴史と文化」をテーマにした、日本で初めての專門ミュージアムです。
住まい情報センターのビルの9階「なにわ町家の歳時記」は、江戸時代のフロア。天保初年(1830年代前半)の大坂の町並みを実物大で復元しています。
8階「モダン大阪パノラマ遊覧」は、明治・大正・昭和のフロアで近代大阪の住まいと暮らしを模型や資料で展示。
さらに企画展示室では特別展や企画展を開催しています。
〇大阪くらしの今昔館は、臨時休館しています
【令和3年4月25日(日)~ 当面の間 】
新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく緊急事態宣言の発令に伴い、4月25日(日)~ 当面の間、臨時休館しています。
※6月19日追記、6月21日より再開しています。
〇企画展「重岡良子 花鳥画展 刻を紡ぐ 写生から装飾 そして琳派を生きる」も臨時休館しています
会期は、令和3年4月17日(土)~6月27日(日)(会期延長)
4月25日(日)~ 当面の間は臨時休館
※6月19日追記、6月21日より再開しています。
大阪くらしの今昔館では現代日本画家の個展「重岡良子 花鳥画展 刻を紡ぐ」を開催します。
日本の絵画は住まいの中で、座敷における「しつらい」として親しまれてきました。中でも四季の彩りを表す花鳥画は古くから愛好され、現代においても人気のある画題のひとつです。
重岡良子氏は自然の中に身を置いて花や鳥などの動植物を写生し、その心を50年にわたって描き表してきました。また、京都で培われた「琳派」に着想を得て「IMA琳派」として装飾性を持たせた作品も発表されています。今回は屏風を中心に代表的な作品を披露します。
春から初夏にかけて草木が青々とするこの時期に、日本画のもつ繊細かつ優美な色彩の織り成す世界をご堪能ください。
【インタビュー動画】重岡良子 花鳥画展 刻を紡ぐ
こちらからどうぞ
⇒ https://www.youtube.com/watch?v=KJRYeH5yqWk
企画展「重岡良子 花鳥画展-刻を紡ぐ- 」の動画第2弾として、会場の風景と作品を作者の言葉の抜粋とともに紹介されています。
【作者の言葉から】重岡良子 花鳥画展 -刻を紡ぐ-
https://www.youtube.com/watch?v=rzOhEpV-mys
〇落語家 桂米團治と歩く江戸時代の大坂
大阪くらしの今昔館の9階常設展示室にある江戸時代(天保年間)の大坂の町並みをご紹介する新しい動画ができました。案内人は上方の落語家、桂米團治師匠です。
〈①表通り編〉
こちらからどうぞ。
https://www.youtube.com/watch?v=n1moBJy5uB4
〈②町家の暮らし編〉
こちらからどうぞ。
https://www.youtube.com/watch?v=dDb2VBmyKnw
〇「今昔館のオンライン まなびプログラム」が公開されています
大阪のまちと住まいや くらしのことを おうちで学んでみませんか?
こちらからどうぞ。
⇒konjyakukan.com/link_pdf/今昔館のオンラインまなびプログラム.pdf
〇大阪くらしの今昔館の紹介動画
今昔館の江戸時代のフロアをご紹介する動画は4編あります。全4編の目次はこちらからどうぞ。
こちらから、見たい部分だけを見ることができます。英語の字幕入りの動画を見ることもできます。
⇒http://konjyakukan.com/link_pdf/what's%20this%20.pdf
このほかに「天神祭となにわの町」をご紹介する動画があります。
⇒https://www.youtube.com/watch?v=3or8fq4U8zE&feature=youtu.be
また、今昔館の近代のフロアをご紹介する動画が2編あります。
⇒https://www.youtube.com/watch?v=SbqzmybwKss&feature=youtu.be
⇒https://www.youtube.com/watch?v=EohP-xqrOi4
〇【動画】重文茶室「蓑庵」ー構造模型で見る茶室建築の世界
重要文化財 大徳寺玉林院茶室「蓑庵(さあん)」の実物大構造模型(竹中大工道具館所蔵)を京都工芸繊維大学名誉教授 日向進先生が分かりやすく解説してくださいます。
こちらからご覧ください。
⇒https://www.youtube.com/watch?v=tqJEnPZckbc&feature=youtu.be
大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからご覧ください。
≫ http://konjyakukan.com/index.html
「今週の今昔館」の第1回から第52回までは、「古地図で愉しむ大阪まち物語」に掲載しています。
「今週の今昔館」の第1回はこちらからご覧ください。
≫ http://osakakochizu.blogspot.com/2016/08/blog-post_5.html
「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。
「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。
≫http://www.sumai-machi-net.com/
初めての方はこちらからどうぞ。
≫http://www.sumai-machi-net.com/howtouse
企画展「重岡良子 花鳥画展-刻を紡ぐ- 」の動画第2弾として、会場の風景と作品を作者の言葉の抜粋とともに紹介されています。
【作者の言葉から】重岡良子 花鳥画展 -刻を紡ぐ-
https://www.youtube.com/watch?v=rzOhEpV-mys
喜雨滴る |
あお麦風々 |
桜東風 |
朝露涼夏 |
ランプシェード |
〇落語家 桂米團治と歩く江戸時代の大坂
大阪くらしの今昔館の9階常設展示室にある江戸時代(天保年間)の大坂の町並みをご紹介する新しい動画ができました。案内人は上方の落語家、桂米團治師匠です。
〈①表通り編〉
こちらからどうぞ。
https://www.youtube.com/watch?v=n1moBJy5uB4
〈②町家の暮らし編〉
こちらからどうぞ。
https://www.youtube.com/watch?v=dDb2VBmyKnw
〇「今昔館のオンライン まなびプログラム」が公開されています
大阪のまちと住まいや くらしのことを おうちで学んでみませんか?
こちらからどうぞ。
⇒konjyakukan.com/link_pdf/今昔館のオンラインまなびプログラム.pdf
〇大阪くらしの今昔館の紹介動画
今昔館の江戸時代のフロアをご紹介する動画は4編あります。全4編の目次はこちらからどうぞ。
こちらから、見たい部分だけを見ることができます。英語の字幕入りの動画を見ることもできます。
⇒http://konjyakukan.com/link_pdf/what's%20this%20.pdf
このほかに「天神祭となにわの町」をご紹介する動画があります。
⇒https://www.youtube.com/watch?v=3or8fq4U8zE&feature=youtu.be
また、今昔館の近代のフロアをご紹介する動画が2編あります。
⇒https://www.youtube.com/watch?v=SbqzmybwKss&feature=youtu.be
⇒https://www.youtube.com/watch?v=EohP-xqrOi4
〇【動画】重文茶室「蓑庵」ー構造模型で見る茶室建築の世界
重要文化財 大徳寺玉林院茶室「蓑庵(さあん)」の実物大構造模型(竹中大工道具館所蔵)を京都工芸繊維大学名誉教授 日向進先生が分かりやすく解説してくださいます。
こちらからご覧ください。
⇒https://www.youtube.com/watch?v=tqJEnPZckbc&feature=youtu.be
大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからご覧ください。
≫ http://konjyakukan.com/index.html
「今週の今昔館」の第1回から第52回までは、「古地図で愉しむ大阪まち物語」に掲載しています。
「今週の今昔館」の第1回はこちらからご覧ください。
≫ http://osakakochizu.blogspot.com/2016/08/blog-post_5.html
「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。
「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。
≫http://www.sumai-machi-net.com/
初めての方はこちらからどうぞ。
≫http://www.sumai-machi-net.com/howtouse
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