2020年11月5日木曜日

今週の今昔館(239) 淀城 20201105

〇淀川両岸一覧にみる江戸時代の大坂(19)

 「淀川両岸一覧」は、江戸時代の大坂から京都までの淀川沿いの名所旧跡を挿絵を添えて紹介しています。このシリーズでは、淀川両岸一覧(上り船之部)に沿って、大坂から京都までの淀川左岸(川の流れから見て左側)沿いの風景を訪ねていきます。「上り船之部」下巻に入って2回目は、「淀城」をご紹介します。現在も堀の一部と石垣が残っており、城跡は神社や公園になっています。京阪電車淀駅から西にすぐのところです。

■淀城 御茶屋
 淀は江戸から数えて東海道五十五番目の宿場です。大坂からは「陸路行程九里」のおよそ35キロメートル、伏見からは一里十四町のおよそ5キロメートルの距離。本陣や脇本陣などはなく、旅籠が十数件ほど営業をするのみであったといいます。本文の解説には次のようにあります。

≪その始めは岩成主悦助がきづく所なり。その後豊公の御簾中この所に住みたまふにより、淀殿と号す。茶亭、淀川の汀にありて美景なり。城下は大橋より小橋まで工家(くか)・商家軒をつらね、万もとむるに欠くることなし。旅舎(はたごや)は小橋の両岸に多くありて上り下り船自由なり。いはゆる街道第一の繁花なり。≫

 伏見の町に近いこともあり、大きな宿場として発展することはなかったようですが、風光明媚な城下町として「街道随一の繁華」を極めたとしています。

 淀大橋を過ぎると、もうそろそろ船の右手に淀城の石垣が見えてきます。北は宇治川、南は木津川、東は巨椋池に接する淀城は天然の要害で、川の水を引いて城内に二重、三重の堀をめぐらしていました。

 淀城といえば、秀吉の側室で淀殿の名で知られる「ちゃちゃ」の居城として有名です。しかし、三十石船から眺められる淀城はその居城ではなく、寛永2年(1625)に古城の南西に再興されたものです。伏見城の廃城を受けて、資材は伏見城の遺材を利用し、さらに、天守は二条城のものを移築したといわれます。

 現在は競馬場で有名な淀も、当時は城下町であるとともに、京街道の宿場町でもあり、川岸にも、茶屋が建ち、この辺りは街道随一の繁華街でした。城の南に架かる大橋から北へ町を横断し、北の小橋に至る街道筋は、挿絵に描かれた城の裏手になり見えませんが、様々な商店が軒を連ね、揃わぬものはないと言われるほどの賑わいでした。

 ここの景観を支えたのは、なんといっても豊かな水の流れ。天明七(1787)年に出版された「拾遺都名所図会」の本文には、次の藤原定家の「顕注密勘」を引用しています。「淀川両岸一覧」も同じ内容を本文に引用しています。

≪淀はよどみをいふ。水の流れもやらでとどこほりぬるくとまれるなり。それをば淀と云ふ。河淀ともよめり。この淀川といふも、桂川・鴨川・宇治川・木津川等のおち合ひてふかかればよどみぬるくながるるなり≫

 これをみると、「淀」の名の由来が流れの「よどみ」であることがわかります。この付近は、鴨川、桂川、宇治川、木津川という大河が合流するポイント。その流れに乗って人や物資が運ばれてくる。それほど大きくはないこの宿場が栄えたのは、このような理由によるのです。

 絵は淀城の川面を、下流から順に、南西の方角から眺めた景色です。
 現在、この三川合流の地は、重なる河川改修によって、往時とはまったく異なった景観となっていますので、注意が必要です。

淀川両岸一覧上船之巻「淀城 御茶屋」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)


 賛は、次のとおりです。
 宵の間は 鯉のうはさや ほととぎす 梅室
 白露の しらけしまひや 淀の水 言水

 本文には「茶亭、淀川の汀にありて美景なり。」という記述があります。この「茶亭」は絵のタイトルにある「御茶屋」のことであると知られます。「淀御城府内之図」をみてみると、淀城の南西に「水車茶屋」と記された場所があります。これが「茶亭」で、「其三」の奥に見える建物に相当します。淀から宇治川をさかのぼれば、そこは宇治茶の一大産地。さらに茶道は武家のたしなみのひとつでしたから、城の脇にこうした施設があっても、おかしくはありません。

 茶の湯は数寄の道。茶を服しつつ、美しい景色を眺める。味覚と視覚の両方を満足させたことでしょう。
 淀の名産に「淀鯉」があります。余所の鯉よりも「美味」であったとか。なかでも、水車の付近で獲れるのを「車下」と呼び、珍重していたといわれます。「其三」の絵をよく見ると、茶亭の南西隅で釣り糸を垂らす男が二人。本日の茶会には、淀鯉が供されるはず。淀鯉を吟じた桜井梅室の発句。

 宵の間は 鯉のうはさや ほととぎす 梅室

淀川両岸一覧上船之巻「其二」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)


 其二の賛は次のとおりです。
 〇(サンズイに奠)河(でんが)東に望む帝王の州 二月の春風、背に上る舟 却って訝(いぶか)る、蓬窓になほ月あるかと 夜来の白雪、汀洲に満つ 釈元皓

 川風の菖蒲(あやめ)ふきけり淀の町 曲水
 との様は 涼しからうぞ 淀の月 梅室

淀川両岸一覧上船之巻「其三」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)


 其三の賛は、次のとおりです。
 さす棹も及ばずなれば行く水にまかせて下す淀の河ふね 冬降

 西山雨晴るる暁 落花〇(サンズイに奠)津(でんしん)に漲(みなぎ)る 城頭の水車子 酌み取る、万斛(まんごく)の春 巌垣彦明

 淀城、其二、其三を並べると、パノラマになります。

淀川両岸一覧上船之巻「淀城、其二、其三」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)


■水車
 淀の名物の1つとして、城の用水を汲み上げる水車がありました。この水車は城の北(宇治川と桂川の合流点)と西(淀川)の2か所にあり、三十石船の川筋にあたります。
 淀城を東に見るこの川筋は、城が川面に影を落とし、茶亭が並びます。淀川の景色の中でも最も美しいと言われる場所です。「淀川両岸一覧」の本文の中でも、「領主の茶亭、橋上の往来の美景邃々(せいせい・おくぶかいの意味)として足らずといふ事なし。」と絶賛しています。夏などは翻々(へんべん)と水しぶきを立てて回る水車がこの景観にさらに趣を添え、急流に棹差してゆっくりと進み行く船からの眺めは、乗客にとって得も言われぬ楽しみだったことでしょう。
 挿絵にのせられている

 子規(ほととぎす) まつやら淀の 水くるま

の宗因の句が夏の川辺の趣をよく伝えています。

 京坂を船で往き来する旅人たちにとって、淀城の淀川面にあった水車はランドマークとなっていました。上り船の場合、三川が合流し、この水車が見えてくると、伏見まではあとわずか。寝ぼけ眼をこする者、近づいてくる貨食(にうり)舟を利用して腹ごしらえをする者、それぞれに降船の支度を始めます。絵の右にみえる上り船に、左から近づいてくるのが貨食舟です。こうした「くらわんか舟」は、下流の枚方だけの名物ではなかったのです。

 その他の賛は、次のとおりです。
 淀のくるまの 修理なりたるをみて 辺信
 くだけても あられぬものか よど車 またも浮瀬に 立ちめぐるなる

 名月や 汲まぬもさむき 水車 言水

淀川両岸一覧上船之巻「其四 水車」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)


 そもそも淀城には、「淀古城」と「淀城」とがあります。前者は、室町時代中期、畠山政長によって築城され、その後、明智光秀、豊臣秀吉らによって改修されました。現在の淀城址よりも北東の、納所付近にあったと言います。秀吉の側室であった淀殿が住まったのもこちらです。
 後者は、元和九(1623)年、徳川秀忠の命を受けた松平定綱によって築城されました。これが現在の淀城祉なのです。絵は後者の淀城を西北の方角から眺めたものです。

 「其五」と題する絵をよくみると、右側中央、本丸付近に霧がかかっているのがわかります。「名所図会」の挿絵には当時の城郭を描くものがほとんどありません。あったとしても、遠景の一部として描き出されるのみで、詳細なものはありません。城郭の詳細は軍事的情報であったため、公刊される「図会」には掲載されなかったからです。
 では、この絵の場合も同じ事情によって本丸を霧で隠しているのでしょうか。答えは否。というのは、淀城は宝暦六(1756)年の落雷によって大半が焼失し、その後、再建されることはありませんでした。軍事的情報を隠蔽しようにも、実際にそれが存在しなかったのです。絵の手前、上り船に乗る旅人たちは、かつての面影をとどめる城を眺めつつ、往時を偲んでいるのでしょう。

淀川両岸一覧上船之巻「其五」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)


 其五の賛は、次のとおりです。
 ほととぎす 二ツの橋を 淀の景 惟然
 曨々(おぼろおぼろ) 灯(ともしび)みるや 淀の橋 鬼貫
 水影や 淀の城ふく あやめ草 順也

 其四水車と其五も並べるとパノラマになります。前の4枚ともつながりますので、一応掲載しておきます。小さくて見にくいですが、クリックすると多少大きくなります。
淀川両岸一覧上船之巻「其四水車、其五」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)

淀川両岸一覧上船之巻「淀大橋から淀城」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)


 本文は次のとおりです。一部重複しますが、淀城の前後の全文を掲載します。
■淀
 大坂より陸路行程九里にあり。「顕注密勘」に云ふ、「淀はよどみをいふ。水の流れもやらでとどこほりぬるくとまれるなり。それをば淀と云ふ。河淀ともよめり。この淀川といふも、桂川・鴨川・宇治川・木津川等のおち合ひてふかかればよどみぬるくながるるなり」云々。
■淀城
 その始めは岩成主悦助がきづく所なり。その後豊公の御簾中この所に住みたまふにより、淀殿と号す。茶亭、淀川の汀にありて美景なり。城下は大橋より小橋まで工家(くか)・商家軒をつらね、万もとむるに欠くることなし。旅舎(はたごや)は小橋の両岸に多くありて上り下り船自由なり。いはゆる街道第一の繁花なり。
■淀河
 城郭の際を流る
五畿内第一の大河にして、六国の水ここに帰会す(山城・近江・河内・伊賀・丹波・摂津)。河水は常に溶々としづかに流れ、難波津に往きかふ舟は昼夜ともに間断なく、城郭の汀には水車ありて、波に随ひ翻々(へんべん)とめぐる。領主の茶亭、橋上の往来の美景邃々(せいせい・おくぶかい)として足らずといふ事なし。またこの所は鯉の名産にして殊に美味あり。高貴の献上には城辺の魚を用ゆ(俗にこれを車下といふ)。ゆゑに常は遊猟を禁ず。
 「拾遺」
 いづかたに 鳴きて行くらん 時鳥(ほととぎす) 淀のわたりの まだ夜深きに 忠見


 次に、大阪くらしの今昔館が所蔵する「よと川の図」の淀城付近を見てみましょう。
 図の右端に「みつさと」の文字が見えます。「美豆の里」のことです。そこから「大はし」を渡ると「孫橋川」が見えます。「間小橋」が架かっている川です。
 かつての街道は、まず南の入口に木津川が流れ、そこに架かる淀大橋を渡る。少し進んで、孫橋。この橋は「大橋と小橋の間にありて小さきゆゑ」に「間小橋」と呼ばれるようになったと言います。さらに北上し、宇治川に架かる淀小橋へとすすんでいくのです。なお、大橋と小橋はすでに失われていますが、孫橋は現存しています。
 対岸には、右手から「こいづみ川」「大あらき森」「淀明神」「水垂」「神崎川」「納所(のうそ)」「小橋」「とみの森」の地名があります。小泉川は現在も大山崎ICの南を流れています。神埼川は現在の地図と照らすと「桂川」にあたるようです。この絵は、淀川の北側の上空から見た風景を描いていますので、当時の淀川(宇治川)は、淀城の北側を流れていたことがわかります。


「よと川の図」の淀城付近(大阪くらしの今昔館蔵)


 淀城付近の地域の変遷は、前回ご紹介した内容と重なりますので、省略させていただきます。
 1枚だけ、当時の景観に最も近いと思われる明治22年陸地測量部地図(仮製地図とも呼ばれる)を掲載しておきます。測量技術の水準が現在と異なるため、正確な比較は難しいですが、当時の大まかな地形を見ることができます。
 宇治川は付け替え前の流れが描かれています。現在よりも北側、淀城よりも北を流れていました。木津川は明治初年に付け替え工事が行われていますので、この地図には描かれていません。(地図の左手八幡の手前で淀川と合流しています。)
 地図の中央やや下に「美津村」という文字があります。よと川の図の「みつさと」にあたります。ここが付け替え前の木津川の河道にあたります。当時の木津川は「美津村」の北西、少し池が残っているあたりで宇治川・桂川と合流していました。

明治22年陸地測量部地図(仮製地図)
国際日本文化研究センター蔵


 最後に、前回と同じものですが、地理院の空中写真です。写真で見ると桂川と宇治川、京都競馬場が目に付きます。図の中央の濃い緑のところが淀城跡です。この写真から、付け替え前の宇治川の川筋をたどることは難しいと思われます。

国土地理院空中写真


 今回は、「淀川両岸一覧」の「淀城」をご紹介しました。淀周辺は木津川・宇治川の付け替え工事などによって地形が大きく変わっていますので、挿絵を見るときには、当時の地形を想像してご覧ください。


〇企画展「景聴園×今昔館 描きひらく上方文化」がはじまっています

 令和2年11月4日(水)~11月23日(月・祝)

 「景聴園(けいちょうえん)」は京都で日本画を学んだグループです。80〜90年代生まれの関西出身の作家5名と企画を担当する2名が所属し、2012年に結成されました。同世代でありながらも異なる制作スタイルを持つ作家たちを中心に、日本画を通して文化と歴史を再考することで絵画のあり方を見つめ、日夜議論を重ねながら制作と発表を続けてきました。第6回目を迎える今回の展示は、大阪での初開催となります。
 大阪くらしの今昔館は、大阪における住まいの歴史を紹介する一環として、江戸時代を中心に近代までの美術・歴史資料を所蔵しています。それらは床の間や座敷で掛軸や屏風として、生活の中を彩るものとして、生活に取り入れられてきました。時代の流れとともに住まいは郊外にうつり、座敷を持たない家も増え、生活の中で日本画に親しむ機会も少なくなってしまいました。しかし現在も、連綿と続いてきた日本画の歴史を継承して学び、絵を描くことについて問いかけながら制作活動をつづける人たちがいます。
 景聴園の作家たちは当館で展示をするにあたり、所蔵品の熟覧を重ねることで大阪の歴史と文化から着想を得て、それぞれのテーマを設けました。本展では、5者5様のアプローチによって描き出された景聴園の新作を中心に今昔館の所蔵品も交えながら、上方で発展してきた都市文化が持つ奥深い世界を展開します。

上坂秀明「ナゾトキヤマ」2017年
合田徹郎「霊猫/狼/インターフェース」2019年
服部しほり「仙」2019年
松平莉奈「菌菌先生」2016年
三橋卓「つなぎとめる方法」2019年


〇大阪くらしの今昔館企画展 関連講演会「景聴園×今昔館」

 関西若手の日本画グループ「景聴園」の展覧会「景聴園×今昔館 描きひらく上方文化」の開催にあたり、これまでの活動と今回の企画展の展示内容について出展者が解説します。
◇日時 : 11月8日(日)13:30~15:00(開場は13時より開始)
◇講師 : 景聴園(出展者)
◇会場 : 大阪市立住まい情報センター5階研修室(当館ビル内)
◇交通 : Osaka Metro堺筋線・谷町線、阪急電鉄「天神橋筋六丁目」駅3号出口すぐ。JR「天満」駅北へ約650m)
◇定員 : 25名(申込先着順)
◇参加方法: 下記リンクからお申し込みください。(定員に達し次第、受付を締め切ります。)
https://www.osaka-angenet.jp/event/60/entry
 


〇大阪くらしの今昔館は6月3日(水)から再開しています

 ご来館のみなさまにも、体温検査やマスクの着用などのご協力いただくことがございます。たいへんご不便をおかけしますが、ご理解・ご協力のほど、お願い申し上げます。なお、詳しくは、こちらをご確認ください。

 今昔館では、当面の間、以下の催し物の開催を中止しています。
・町家ツアー(ボランティア等による展示解説)
・着物体験
・上方芸能・文化体験(町家寄席、お茶会など)
・町家衆による各種ワークショップ
・ギャラリートーク、講演会


〇大阪くらしの今昔館の紹介動画
 今昔館の江戸時代のフロアをご紹介する動画は4編あります。全4編の目次はこちらからどうぞ。
 こちらから、見たい部分だけを見ることができます。英語の字幕入りの動画を見ることもできます。
http://konjyakukan.com/link_pdf/what's%20this%20.pdf


 このほかに「天神祭となにわの町」をご紹介する動画があります。
https://www.youtube.com/watch?v=3or8fq4U8zE&feature=youtu.be


 また、今昔館の近代のフロアをご紹介する動画が2編あります。
https://www.youtube.com/watch?v=SbqzmybwKss&feature=youtu.be

https://www.youtube.com/watch?v=EohP-xqrOi4



〇【動画】重文茶室「蓑庵」ー構造模型で見る茶室建築の世界
 重要文化財 大徳寺玉林院茶室「蓑庵(さあん)」の実物大構造模型(竹中大工道具館所蔵)を京都工芸繊維大学名誉教授 日向進先生が分かりやすく解説してくださいます。
 こちらからご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=tqJEnPZckbc&feature=youtu.be



〇「今昔館のオンライン まなびプログラム」が公開されています
 大阪のまちと住まいや くらしのことを おうちで学んでみませんか?
 こちらからどうぞ。
 ⇒konjyakukan.com/link_pdf/今昔館のオンラインまなびプログラム.pdf



 大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからご覧ください。
http://konjyakukan.com/index.html


 「今週の今昔館」の第1回から第52回までは、「古地図で愉しむ大阪まち物語」に掲載しています。
 「今週の今昔館」の第1回はこちらからご覧ください。
http://osakakochizu.blogspot.com/2016/08/blog-post_5.html


 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。

「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。
http://www.sumai-machi-net.com/
初めての方はこちらからどうぞ。
http://www.sumai-machi-net.com/howtouse


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