2020年11月18日水曜日

今週の今昔館(241) 伏見 京橋 20201118

〇淀川両岸一覧にみる江戸時代の大坂(21)

 琵琶湖から大阪湾へと流れる淀川は、人の流れ、物の流れを担う交通の大動脈として機能してきただけでなく、人々の暮らしと大きく関わり、政治・経済・文化にも大きな影響を与えてきました。

 「淀川両岸一覧」は、江戸時代の大坂から京都までの淀川沿いの名所旧跡を挿絵を添えて紹介しています。このシリーズでは、淀川両岸一覧(上り船之部)に沿って、大坂から京都までの淀川左岸(川の流れから見て左側)沿いの風景を訪ねていきます。今回は「伏見 京橋」をご紹介します。いよいよ三十石船の終着で、幕末の時代劇によく登場するお馴染みの場所です。

■伏見 京橋
 淀小橋より引き始めた船は、伏見の手前、三栖まで引き上がり、ここで綱を手繰り納めて、京橋の船着き場まで棹差して上がります。
 挿絵の三十石船は画面右下に描かれ、船頭等は最後のひと差しをして船を接岸するところです。早朝に八軒家を出た上り船も、終着の京橋に着く頃には日もとっぷりと暮れています。ここまで来ると、まるで重箱に詰められた饅頭のように苫の下できゅうきゅうとしていた船客も、苫の隙間から立ち上がり背伸びをしています。
 浜辺は、旅客、その出迎え、見送りの人、荷馬、商人、宿の客引き等でごったがえす中、この人いきれを抜けて旅籠行灯が連なる宿場町へ出ます。船客は旅の疲れを癒すため、伏見に着くとまず船宿で食事をし、その後、狭い船内で凝った身体を按摩してもらい、翌日からの旅に備えたものでした。

淀川両岸一覧上船之巻「伏見 京橋」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)


 江戸時代の伏見は、京都町奉行ではなく伏見奉行の支配下にありました。それで、伏見から京に通じる経路にあった橋を京橋と呼んだわけです。大坂城の北にある京街道の起点となる橋を京橋と呼ぶのと同じ理屈です。

 挿絵は京橋界隈を西側から眺めた風景で、右手、京橋の奥に見えるのは蓬莱橋です。本文の解説には京橋の北詰に高札場があったことが記されています。この絵では高札場をはっきりと確認することはできませんが、左の絵の中央寄り、橋のたもとの民家と民家のあいだに屋根の部分だけが見えているのが高札場です。
 大坂方面から上洛する旅人はこの伏見浜で下船し、その後、京を目指しました。そのため、この高札場でさまざまな情報を得たのです。

 絵の右下には、いままさに船を降りようとする人々と積み荷のようすが描かれています。手前にみえる船は旅人を乗せたまま。これは、すでに着岸している船が人や荷物を降ろし終えるのを待っているのです。下船する旅人を岸で待ちかまえるのは、京橋付近にあった宿の客引きたち。待ちきれず、水上と陸上とで交渉を始めているようすです。本文の解説には次のようにあります。

≪この橋の辺(ほと)りは浪華より京師に上り下りの通船三十石、今井船あるいは伝道の荷船等の船岸(ふなつき)にして、夜となく昼となく出入の船々間断なく、且つ都に通う高瀬船、宇治河下る柴船、かずかず挙(こぞ)って喧(かまびす)しく、京摂の往返、関東上下の旅客群衆の地なるが故に旅舎(はたごや)、貨食家(りょうりや)の多(さは)なることは言ふも更なり。≫

 おそらくは、大坂からの上り船が着くたびに、絵に描かれたような光景が繰り返されていたことでしょう。

 乗合の船は ふしみへ 着きながら
 はなればなれに 出づる旅人
 アハ 大奈紋 袖彦


 下船すれば、宿で疲れをとるもよし、先を急ぐもよし、絵には、当時の界隈の殷賑ぶりがよく伝わる狂歌が賛として紹介されています。
 また、宿のほかにもさまざまな店のあったことが本文の記述によって知られます。

≪土産物の商家(あきふど)、旅行用具の正店(をほみせ)・脚店(こみせ)、軒をつらねてこれを販(ひさ)ぐ。されば船上りの老若男女、いづれも船宿に入りて支度を調ふ。故に煙草・楊枝・紙うる嬶(かか)、菓子・饅頭を売(あきな)ふ童子、銭の両替・青物売・按摩按腹の療治人・本堂修復の勧進僧、立ちかはり入りかはり此に来つて数(しばし)すすむ。飲食すんで発足の上客(のぼりきゃく)あれば、下客(くだりきゃく)迎ひに来る船頭ありて、しばしも静ならざるは皆此所の賑はひなり。≫

 旅の必需品を中心に、煙草や甘味などなど豊富な品揃え、なかでも、旅の疲れを癒す按摩治療や、殷賑を期待して浄財を募るという点に、なるほどとうなずかれます。
 ところで、絵の左側中央に城郭風の建物が見えます。挿絵の解説には次のようにあります。

≪当橋の北詰東北の角に城塁のごとき堠楼(やぐら)あり。いにしへ伏見の城の遺風なるべし。一奇観たり。≫

 およそ、高札場の間近にあったこの建造物は、かつての伏見城の遺構だとのこと。ただし、「都名所図会」の挿絵や同時代の随筆類にこの遺構が登場することはなく、この絵によってしか確認することはできません。


 本文は次のとおりです。伏見の地名の由来や、橋、神社など、詳しく解説があります。長くなりますが全文を掲載しておきます。
■伏見
 当地より花洛(みやこ)にいたる、行程二里。「日本紀」には俯見(ふしみ)と書けり。和歌には呉竹のふし見の里と詠めり。また伏水と書くことは、宇治川の流水この所にて伏(ふく)し湛(たた)ふるのゆゑならんか。後世すべて伏見と書けり。いにしへは民村九郷なりしを、文禄三年秀吉公御在城より町小路建ち続きて、西国より東国・北国へおもむく喉口(ここう)の地となる。町数二百六十余町、舎屋六千二百余軒となり。これより京師にいたるに東街道を本とす。西の道を竹田街道といふ。いづれもその便宜に任す。

 「新古」
 夢かよふ 道さへ絶えぬ 呉竹の ふしみの里の 雪の下折(したをれ)

 「新勅」
 朝戸明けて 伏見の里を ながむれば 霞にむせぶ 宇治の河波

 この余(ほか)野・山・沢・田など故人の和歌多し。なほ名所旧蹟しばしばありといへども、事しげければこれを略し、ただ街道のかたはらなる所々をかいつみてその一、二をあらはすのみ。

■肥後橋
 伏見の入口、下三栖より西浜町にわたす。長さ十五間半、京橋に着岸の登り舟は、この川すぢにさし入るとき、第一番に見ゆる橋なり。
■三栖社御旅所
 肥後橋の東詰にあり。例祭九月十六日。生土(うぶすな)の神輿この所に渡御あり。
■住吉神社
 肥後橋の東、船大工町にあり。宝蔵院これを守護す。東浜に着岸の登り舟は、この川口に入るなり。
■今富橋
 東浜より中書島にわたす。橋の長さ十八間、幅一間六尺一寸。この橋辺船宿多くいたって賑はし。
■中書島
 今富ばしの東詰めにあり。一説に、文禄年中向島に塁を築くといふは、この中書島の地なり。慶長のはじめ伏見の城とともに滅亡せり。それより年久しく荒廃の地となりしを後世遊女町となりて、いにしへの江口・神崎に準(なぞら)へ、旅客の船をとどめて羇旅の憂さをなぐさむ。すこぶる繁昌の地なり。
■弁才天社
 中書島にあり。本尊弁才天」の像は弘法大師の作といふ。例年六月二十五日祭礼ありて、この島の賑はひ、いはんかたなし。
■京橋
 今富橋西詰の北の方の浜より北へわたす。北詰を京橋町といふ。橋の長さ二十二間。北詰に高札場あり。淀小橋よりこれまで水上およそ五十町。
 この橋の辺(ほと)りは浪華より京師に上り下りの通船三十石、今井船あるいは伝道の荷船等の船岸(ふなつき)にして、夜となく昼となく出入の船々間断なく、且つ都に通う高瀬船、宇治河下る柴船、かずかず挙(こぞ)って喧(かまびす)しく、京摂の往返、関東上下の旅客群衆の地なるが故に旅舎(はたごや)、貨食家(りょうりや)の多(さは)なることは言ふも更なり。
 土産物の商家(あきふどか)、旅行用具の正店(をほみせ)・脚店(こみせ)、軒をつらねてこれを販(ひさ)ぐ。されば船上りの老若男女、いづれも船宿に入りて支度を調ふ。故に煙草・楊枝・紙うる嬶(かか)、菓子・饅頭を売(あきな)ふ童子、銭の両替・青物売・按摩按腹の療治人・本堂修復の勧進僧、立ちかはり入りかはり此に来つて数(しばし)すすむ。飲食すんで発足の上客(のぼりきゃく)あれば、下客(くだりきゃく)迎ひに来る船頭ありて、しばしも静ならざるは皆此所の賑はひなり。
■阿波橋
 肥後橋の川すぢ上にあり、西浜といふ。ここにも船宿あまたありて、最もにぎはし。橋すぢの東は京街道に通じ、西は横大路に出づる道すぢなり。
■蓬莱橋
 京橋の上、南浜町より中書島に架(わた)す。橋の長さ三十二間、幅二間。この橋すぢは京街道の往還にして、上り下りの行人たゆることなく至って賑はし。
 船上がりの旅客京師に到るに、おのおのその勝手に任せて同じからずといへども、およそこの橋条(すぢ)を北へ下板橋通に至り(この所行きあたりにして、右はいなりかいだう、左は竹田かいだうなり)、右へとりて墨染・深草を経て京に入るを、本街道といふ(あるいは伏見街道・稲荷街道と云ふ)。また左へとり下板橋を渡り車道に出でて北に上る(これ東桐蔭通にして竹田街道といふ。西六条に趣くは六軒茶屋の南の方より西によぎりて、竹田村より油小路にいづる。これを西竹田道といふ。)

 たくさんの橋が出てきましたので、地図で確認しておきます。
A:京橋    B:蓬莱橋
C:肥後橋   D:阿波橋
E:今富橋   G:下板橋
F:蓬莱橋から北へ下板橋通に至る突き当り。右は稲荷街道、左は竹田街道に通じています。


明治42年陸地測量部地図と最新の国土地理院地図
いずれも明治期の低湿地を重ねています。


 次に、大阪くらしの今昔館が所蔵する「よと川の図」の伏見付近を見てみましょう。
 淀から京街道を歩いてきた旅人は地図の右下「大坂かい道」とある所に出ます。この辺りは「下三栖」と呼ばれていました。岸から綱で引かれる上り船が描かれています。
 ここから「向はし(本文の肥後橋に当たる)」を渡ると伏見のまちです。橋の東詰は「西はま町」、左手(北)に進むと「北はま町」に至ります。そこから「京はし」を渡ったところが三十石船の船着き場になります。
 「京はし」の奥には「中書島」「弁才天」が見え、遠景には「宇治山」が描かれています。なお、この絵は、伏見の町を北西の上空から見た風景を描いています。


「よと川の図」の伏見付近(大阪くらしの今昔館蔵)


 伏見付近の地域の変遷を地形図で見てみましょう。
 1枚目は明治42年の地形図に明治期の低湿地(明治20年ころの水面(水色)・水田(黄色)・湿地(紫)・荒地(緑)を表す)です。宇治川の本流から支流が分かれ、伏見の港に至る水路を形成しています。川幅が多少狭くなっているようですが、江戸時代もこれに近い地形であったと想像されます。

明治42年陸地測量部地図+明治期の低湿地

 2枚目は明治42年地形図に色別標高図を重ねました。図の右上の山がかつて伏見城があったところです。伏見はその城下町として町が形成されました。

明治42年陸地測量部地図+色別標高図

 3枚目は、地理院地図に明治期の低湿地を重ねました。京阪中書島駅の西から北へ延びる水路は埋め立てられて道路となり、西に延びる幅の広い水面(体育館の文字のある辺り)は埋め立てられて伏見港公園となっています。三栖から京橋を経て観月橋に至る水路は現存しており、十石船などの遊覧船が通っています。緑の道路は第二京阪道路(高速道路)です。洛南道路とも呼ばれています。

最新の国土地理院地図+明治期の低湿地

 4枚目は地理院地図に色別標高図を重ねたものです。新しく築かれた新高瀬川が伏見の町の西を南北に流れています。赤い道路は国道で、地図の左手は1号線、右手は24号線です。黄色は府道です。京阪電車、近鉄電車、JR奈良線が見えます。

最新の国土地理院地図+色別標高図

 最後は、地理院の空中写真です。右上の緑は伏見桃山御陵、右下は巨椋池が干拓された向島ニュータウン、そのほか住宅団地も見えますが、伏見の町は古くからの建物が多く残っています。高瀬川とつながる水路もよくわかります。

国土地理院空中写真


 今回は、「淀川両岸一覧」の「伏見 京橋」をご紹介しました。今回で、三十石船による大坂八軒家から伏見までの船旅は終了します。次回からは徒歩で稲荷街道を京へ向かいます。


〇企画展「景聴園×今昔館 描きひらく上方文化」開催中です

 令和2年11月4日(水)~11月23日(月・祝)

 「景聴園(けいちょうえん)」は京都で日本画を学んだグループです。80〜90年代生まれの関西出身の作家5名と企画を担当する2名が所属し、2012年に結成されました。同世代でありながらも異なる制作スタイルを持つ作家たちを中心に、日本画を通して文化と歴史を再考することで絵画のあり方を見つめ、日夜議論を重ねながら制作と発表を続けてきました。第6回目を迎える今回の展示は、大阪での初開催となります。
 大阪くらしの今昔館は、大阪における住まいの歴史を紹介する一環として、江戸時代を中心に近代までの美術・歴史資料を所蔵しています。それらは床の間や座敷で掛軸や屏風として、生活の中を彩るものとして、生活に取り入れられてきました。時代の流れとともに住まいは郊外にうつり、座敷を持たない家も増え、生活の中で日本画に親しむ機会も少なくなってしまいました。しかし現在も、連綿と続いてきた日本画の歴史を継承して学び、絵を描くことについて問いかけながら制作活動をつづける人たちがいます。
 景聴園の作家たちは当館で展示をするにあたり、所蔵品の熟覧を重ねることで大阪の歴史と文化から着想を得て、それぞれのテーマを設けました。本展では、5者5様のアプローチによって描き出された景聴園の新作を中心に今昔館の所蔵品も交えながら、上方で発展してきた都市文化が持つ奥深い世界を展開します。

こちらから企画展の紹介動画をご覧いただけます。

https://www.youtube.com/watch?v=JfeeQ8ShSgo&feature=youtu.be

上坂秀明「水のニオイのする町」2020年
上坂秀明「ナゾトキヤマ」2017年
合田徹郎「Across the Frontier」2020年
合田徹郎「霊猫/狼/インターフェース」2019年
服部しほり「金太の船渡御」2020年
服部しほり「仙」2019年
松平莉奈「大阪はたらくおんなの十景」2020年のうち二景
松平莉奈「菌菌先生」2016年
三橋卓「蜻蛉」2020年
三橋卓「つなぎとめる方法」2019年


〇シンポジウム「美しい日本の暮らし・秋」の開催
 文化庁から委託を受け、公益財団法人山本能楽堂が企画・運営し、大阪市立住まいのミュージアムが共催で実施する「二十四節気七十二候~暮らしをいろどる生活絵巻~日本人ってすごい!」の一環としておこなうものです。

◇基調講演
 「生活を楽しむ日本人の暮らし・秋」大阪くらしの今昔館 館長 谷 直樹氏
◇事例報告
 「茶の湯の季節感」森 雅子氏 大徳寺玉林院
 「和装がふだん着だった頃」深田 智恵子氏 大阪くらしの今昔館
◇まとめ
 「美しい都市のくらしと創造性」
 佐々木 雅幸氏(文化庁文化創造アナリスト 大阪市立大学名誉教授)

日 時:令和2年11月29日(日)10:30~12:30
会 場:大阪市立住まい情報センター3階ホール 大阪市北区天神橋6丁目4-20
参加費:無料
定 員:150名(先着順)

詳しくはこちらからどうぞ。
http://konjyakukan.com/topic.html#2020/11/12


〇落語家 桂米團治と歩く江戸時代の大坂〈①表通り編〉
 大阪くらしの今昔館の9階常設展示室にある江戸時代(天保年間)の大坂の町並みをご紹介する新しい動画ができました。案内人は上方の落語家、桂米團治師匠です。
 こちらからどうぞ。
https://www.youtube.com/watch?v=n1moBJy5uB4


〇大阪くらしの今昔館は感染予防に注意して再開しています

 ご来館のみなさまにも、体温検査やマスクの着用などのご協力いただくことがございます。たいへんご不便をおかけしますが、ご理解・ご協力のほど、お願い申し上げます。なお、詳しくは、こちらをご確認ください。

 今昔館では、当面の間、以下の催し物の開催を中止しています。
・着物体験
・上方芸能・文化体験(町家寄席、お茶会など)
・町家衆による各種ワークショップ


〇大阪くらしの今昔館の紹介動画
 今昔館の江戸時代のフロアをご紹介する動画は4編あります。全4編の目次はこちらからどうぞ。
 こちらから、見たい部分だけを見ることができます。英語の字幕入りの動画を見ることもできます。
http://konjyakukan.com/link_pdf/what's%20this%20.pdf


 このほかに「天神祭となにわの町」をご紹介する動画があります。
https://www.youtube.com/watch?v=3or8fq4U8zE&feature=youtu.be


 また、今昔館の近代のフロアをご紹介する動画が2編あります。
https://www.youtube.com/watch?v=SbqzmybwKss&feature=youtu.be

https://www.youtube.com/watch?v=EohP-xqrOi4



〇【動画】重文茶室「蓑庵」ー構造模型で見る茶室建築の世界
 重要文化財 大徳寺玉林院茶室「蓑庵(さあん)」の実物大構造模型(竹中大工道具館所蔵)を京都工芸繊維大学名誉教授 日向進先生が分かりやすく解説してくださいます。
 こちらからご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=tqJEnPZckbc&feature=youtu.be



〇「今昔館のオンライン まなびプログラム」が公開されています
 大阪のまちと住まいや くらしのことを おうちで学んでみませんか?
 こちらからどうぞ。
 ⇒konjyakukan.com/link_pdf/今昔館のオンラインまなびプログラム.pdf



 大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからご覧ください。
http://konjyakukan.com/index.html


 「今週の今昔館」の第1回から第52回までは、「古地図で愉しむ大阪まち物語」に掲載しています。
 「今週の今昔館」の第1回はこちらからご覧ください。
http://osakakochizu.blogspot.com/2016/08/blog-post_5.html


 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。

「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。
http://www.sumai-machi-net.com/
初めての方はこちらからどうぞ。
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