2020年3月17日火曜日

今週の今昔館(207) 松ヶ鼻大わたし 20200317

〇大阪くらしの今昔館からのお知らせです。

 臨時休館延長のお知らせ 3/18(水)~当面の間


 このたび、新型コロナウイルス感染症の拡大防止の観点から、令和2年2月29日(土)~3月17日(火)までの間、臨時休館としていましたが、3月18日(水)以降も当面の間、臨時休館を継続いたします。
 当館の展示を楽しみにして下さっている皆様には申し訳ありませんが、ご理解のほどよろしくお願いいたします。
 なお、今後の予定につきましては、国や大阪市の動向、感染症の拡大状況を注視しつつ決定し、ホームページにおいてお知らせします。



〇浪華の賑ひに見る江戸時代の大坂(38)

 今回は「浪華の賑ひ」の「松ヶ鼻大わたし」をご紹介します。

■松ヶ鼻大わたし
 この所は木津川町の北の端にして、東の岸は新町通の西にあたれり。名木の松ありて、蒼々たる枝葉、川の面にうつる景色斜ならず。夏の頃は舟行の遊人この松の下に棹さしよせて、涼風を賞し、花火焼(た)きて楽しむなど、その瞻望(ながめ)また比(たぐ)ひなし。松の下に蛭子祠(えびすのやしろ)あり。ゆゑに恵美須(えみす)の松と称す。もとはこの地を笑姿島(えみすじま)といひしとぞ。

浪華の賑ひ「松ヶ鼻大わたし」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)

「浪花百景」にも、「松の鼻」がありますので、ご紹介します。

■松のはな(国員画)
 安治川より別れて南下する木津川は、現在の松島公園の北側付近で分流して尻無川となります。この辺り一帯は船大工が多く、造船業の集まるところでした。分流点の岸は、突端には水面に枝を大きく垂らす見事な松の名木があったことから「松の鼻」「松が鼻」と呼ばれていました。
 江戸時代には樹齢300年と称する名松を目当てに舟行の客が繰り出し、松を愛でながら酒宴を催すほどの水辺の景勝地として親しまれました。この二つの川に挟まれた一帯は明治元年(1868)松の鼻に因んで寺島から松嶋と改称、以降遊廓として栄えました。
 松は大正年間(1912~26)に枯れてしまい、尻無川は同じ頃現在の流路(岩崎運河)に付け替えられ、元の流路は戦後に埋め立てられました。

浪花百景「松のはな」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)


 江戸時代天保年間発行の「浪華名所獨案内」の戎島付近を見ると、「エノゴジマ」「九条」「竹林寺」の地名が見えますが、松の鼻は記載されていません。この地図は、東が上になっています。

浪華名所獨案内(「津の清」蔵)


 次に、天保8年(1837)発行の天保新改攝州大坂全圖を見てみましょう。江之子島の南端に「ツキ地」の文字があり、その対岸にある松島の北端に「松ガハナ」の文字があります。木津川と百間堀、立売堀が合流した後、「松ガハナ」で再び2つに分かれます。東に木津川、西に尻無川となって流れます。木津川には「ワタシ」の文字が見えます。2つの川に挟まれた島には、「九条村ノ内」の文字がありますが、当時は「寺島」とも呼ばれていました。

天保新改攝州大坂全圖(国際日本文化研究センター蔵)

 大正13年発行の大阪市パノラマ地図では、松島の北端に松の木の絵が描かれています。「松島」の地名は、松ヶ鼻の「松」と、元の地名である寺島の「島」を合わせて名付けられたといわれています。長堀の北側を西へ走ってきた市電は、木津川を渡ったところ松島町停留所があり、ここで南北に分かれます。北へ進むと港通と交差する所に「本田通一」の停留所があり、南へ進むと桜の木が描かれている天満宮の御旅所の前を通って「九条」停留所に至ります。松島の中央に南北に並ぶ桜並木の両側は松島遊郭です。

大阪市パノラマ地図(大阪くらしの今昔館蔵)

 昭和12年発行の大大阪観光地図を見ると、松島の北端に「松ケ鼻」の文字があります。「常盤橋」電停の傍には「茨住吉」が、江之子島には「工業奨励館」の文字があります。地図の凡例によると、赤い太い線は市電、赤い細い線は市営バス、┼┼┼┼┼ は会社バスの路線を示しています。当時、市営バスは「銀バス」、大阪市内で競合していた民営の大阪乗合自動車は「青バス」の名前で親しまれていました。昭和15年(1940)に、大阪市は大阪乗合自動車(青バス)を統合し、市電・地下鉄を合わせて大阪市内交通を事実上独占する状態(市営モンロー主義といわれる)になります。

大大阪観光地図(国際日本文化研究センター蔵)

 今昔マップ3を利用して、地形図の変遷を見てみます。
 左の明治42年では、松の鼻で2つに分かれた木津川と尻無川に囲まれたところが松嶋となっており、まさに「嶋」となっていました。
 右の最新の地理院地図を見ると、市電はすべて廃止され、港通の西側に中央大通りができて、地下鉄中央線が走っています。尻無川が埋め立てられた跡を取り込む形で公園ができています。尻無川の埋め立てによって「松の鼻」そのものがなくなってしまいました。
 町名からは松嶋が消えて、千代崎という住居表示に変わっています。尻無川が埋め立てられた上に京セラ大阪ドームが建設されています。地下鉄長堀鶴見緑地線「ドーム前千代崎駅」と阪神なんば線「ドーム前駅」の文字が見えています。

明治42年地形図と最新の地理院地図
(今昔マップ3より)

 松の鼻があった辺りの地域の現状を写真で見てみましょう。尻無川が埋め立てられたため、松島は島でなくなり、本田・九条と地続きになりました。江之子島も百間堀川が埋め立てられて島ではなくなっています。江之子島の南端は河川敷公園として整備されて「トコトコダンダン」と呼ばれています。

トコトコダンダンから松島側を見る
手前は木津川、大阪ドームも見えている、
左手の橋は架け替えられた松島橋
トコトコダンダンの入口
堤防上はトコトコダンダンへの通路
トコトコダンダン(手前)から対岸の本田・松島側を見る
江之子島と本田を結ぶ「大渉橋」
尻無川跡の碑
「松島橋」の親柱と顕彰碑
新町と松島を結ぶ「松島橋」の顕彰碑
松島と本田を結んでいた「梅本橋」の顕彰碑

 今回は、「浪華の賑ひ」の「松ヶ鼻大わたし」をご紹介しました。今昔館8階展示室の床面には大きく拡大した「大阪市パノラマ地図」がありますので、昔の地図、現代の地図と見比べながらお楽しみください。

 大阪市パノラマ地図についてはこちらに解説があります。
http://konkon2001.blogspot.jp/2017/10/blog-post_10.html
http://sumai-osaka.blogspot.jp/2015/08/blog-post_29.html


特別展「世界遺産をつくった大工棟梁―中井大和守の建築絵図細見」は、新型コロナウイルス感染症の拡大防止の観点から、当面の間、臨時休館しています。
会期:令和2年2月22日(土)~4月5日(日)

 中井大和守(初代・正清)は、江戸幕府の草創期に、二条城、江戸城、駿府城、名古屋城の天守や御殿をつくった大工棟梁で、元和5年(1619)に没しました。それから400年。中井正清とその子孫の建築作品の多くは火災などで失われましたが、現存するものは国宝や重要文化財に指定され、一部は世界遺産に登録されています。

 重要文化財「大工棟梁中井家関係資料」(中井正知氏・中井正純氏蔵)の建築絵図は、中井家の建築作品の全容を伝えてくれる貴重な資料です。その内容は、城、武家屋敷、内裏(御所)、寺院、神社、茶室などの建物を網羅し、建物の平面図や立面図だけでなく、儀式図、庭園図、起こし絵図など多彩です。これらの絵図は、破損や老朽化が進んできたので、平成25年(2013)から文化庁の指導監督の下で国庫補助事業として保存修理を行ってきました。この事業は住友財団の助成対象にも選定されました。

 特別展「世界遺産をつくった大工棟梁―中井大和守の建築絵図細見」は、この修理でよみがえった建築絵図を公開し、同時に中井家資料の修理技法を紹介します。

 チラシの拡大版は、こちらからどうぞ。 ⇒http://konjyakukan.com/kikakuimage/kara1241510494.pdf



「中井大和守正清肖像」
「洛東清水寺惣絵図」(部分)
「豊臣時代大坂城本丸指図」



【イベント、ワークショップ、および町家ツアー中止のお知らせ】
3月20日(金)までのイベント、ワークショップ、および、町家ツアーは、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、中止することになりました。



 大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからご覧ください。
http://konjyakukan.com/index.html


 「今週の今昔館」の第1回から第52回までは、「古地図で愉しむ大阪まち物語」に掲載しています。
 「今週の今昔館」の第1回はこちらからご覧ください。
http://osakakochizu.blogspot.com/2016/08/blog-post_5.html


 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。

「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。
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