2020年5月26日火曜日

今週の今昔館(217) 難波橋 20200526

〇浪華の賑ひに見る江戸時代の大坂(48)

 今回は「浪華の賑ひ」の「難波橋」をご紹介します。

■難波橋
 すずしさやまづともしびの蛍かな 今朝菴醒花

浪華の賑ひ「難波橋」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)


 浪花の賑ひの本文には、難波橋について、次のような記載があります。

■難波橋
 大川すじ第三の大橋なり
 南詰は船場の北浜町、北詰は西天満といふ。長さ百十四間六尺、高欄壮観なり。この北詰、西の方は諸侯の御蔵屋敷、甍を連ねて巍巍たり。夏の夕は浜側に納涼(すずみ)の茶店をならべ、醴酒(ひとよざけ)・豆茶なんどを販(ひさ)ぎて、川風に苦熱を忘るる客をもてなす。あるいは按摩按腹・軍書講釈などありて、すこぶる賑はし。
 六月二十四日・二十五日の両日は天満宮の祭礼にこの川筋を船にて神輿渡御あれば、川には拝礼の船々透き間なく、陸もひとしく遥拝の群衆雲霞のごとく、献灯の挑灯、商店の行灯、あたかも白昼のごとく、花火の流星八方を照らし、水売の錫鉢四面に輝き、その美観言ふべくもあらず。皆これ天満神の余光なるべし。
 この橋の中央より西の方に中の島の端あり。これを山崎の鼻と号す。この地方より東の方の瞻望佳景なり。風流の貨食家・富家の隠居所などありて、双びなき勝地なり。これより北の流れを堂島川といひ、南の流れを大川と号す。


 「浪花百景」には、「浪花橋夕景」があります。

■浪花橋夕景(国員画)
 現在、堺筋を土佐堀川と堂島川に架かる「難波橋」は、大正4年(1915)市電が走る橋として掛け替えられるまで一つ西の難波橋筋に架かっていました。当時は中之島は難波橋の西までしかなく、大川に架かる長い橋でした。架橋年代については豊臣時代に架橋されたのではないかといわれていますが、『元亨釈書』に天平17年(745)僧行基が摂州に難波橋を架けたという記事もあり、正確なところは定かではありません。

 江戸期には浪華三大橋として公儀橋に指定され、界隈には諸藩の蔵屋敷が建ち並びそれを取り巻くように問屋街が形成され、大変な賑いをみせていました。また納涼や花火見物、花見、月見にも絶好で舟遊びや避暑を楽しむ行楽地でもありました。現在は堂島川、中之島公園、土佐堀川にまたがって架かり、ライオン像を有することで知られています。堺筋にありますが、名前は難波橋を引き継いでいます。

浪花百景「浪花橋夕景」(大阪市立図書館蔵)

 難波橋、天神橋、天満橋の三大橋や天満天神、天満市場あたりの町の様子を江戸時代の古地図で見てみましょう。まず初めに、天保年間発行の「浪華名所獨案内(なにわ めいしょ ひとり あんない)」。江戸時代の観光マップです。東が上になっています。淀川には地図の上から順に天満バシ、天神バシ、ナニハバシが架かり、左側の北岸には青物市場と市ノ側、その北には天満宮があり、南岸には八ケン家があります。中之島はナニハバシの手前までしかありません。

 赤い線は観光のモデルコースを示しています。当時から名所であった場所が、浪花百景に描かれていることが確認できます。

浪華名所獨案内(「津の清」蔵・上が東です)

 次は、ラムゼイコレクションで公開されている文化3年(1806)発行の「増修改正摂州大阪地図」。三大橋には長さと幅が表示されています。幅はいずれも3間で、長さは天神橋は122間、天満橋は115間、難波橋は114間となっており、いずれも百間を超える大橋でした。

 大川北岸の天満橋と天神橋の間には、「青モノ市バ」の文字があります。白い△の印は天満組(大坂三郷のひとつ)を示しています。左下に見える黒丸(●)は、北組です。

文化3年(1806)発行の「増修改正摂州大阪地図」
(ラムゼイコレクションより)

 3枚目は、時代が下って大正13年発行の「大阪市パノラマ地図」。明治21年(1888)に架け替えられてトラス構造の鉄橋となった天満橋と天神橋が描かれています。北岸にびっしりと並ぶ町家は青物市場です。

 天満橋と難波橋には市電が通っている様子が描かれています。中之島が現在と同じく天神橋まで伸びています。
 4枚目は難波橋付近を拡大したもの。橋の姿や建物の様子がよくわかります。現在東洋陶磁美術館が建っている場所には大阪ホテルがあり、西には公会堂・図書館が並んでいます。中之島公園のバラ園も描かれています。

大阪市パノラマ地図(国際日本文化研究センター蔵)
大阪市パノラマ地図(国際日本文化研究センター蔵)

 次は、昭和12年の「大大阪観光地図」。観光名所に挿絵が入り、名前を丸で囲んだ赤字で示しています。天満天神、造幣局、難波橋、天神橋、中之島公園に加えて、「天満配給所」があります。青物市場が中央卸売市場に統合された跡地がそう呼ばれていたのでしょうか。

大大阪観光地図(国際日本文化研究センター蔵)

 明治時代以降のまちの変遷を、今昔マップを使って辿ってみましょう。

 1枚目は、明治41年(左)と昭和4年(右)。左の地図では、城東線(現在の大阪環状線)は通っていますが、道路や掘割には江戸時代の町割りのなごりが残っています。図の左上には堀川監獄があります。東西の寺町もよくわかります。難波橋は堀川から西に2本目の筋(難波橋筋)に架かっていた旧難波橋です。

 右の地図では、市電の開通と合わせて幹線道路の拡幅と橋の架け替えが行われています。難波橋は堀川から1本西の堺筋に移設されています。中之島は現在と同じ天神橋の東まで伸びてきています。天満橋をよく見ると、市電が橋の東側を通っています。パノラマ地図で確認すると市電はトラスの外側を走っており、正確に描かれていることがわかります。監獄が堺へ移転した跡地は扇町公園になっています。

明治41年と昭和4年の地形図(今昔マップ)

 2枚目は、左が終戦後の昭和22年、右は最近の地形図です。左の地図の白い部分は戦災で焼失した地域です。東天満の多くは焼失しましたが、西天満の老松町付近は焼失を免れました。天神橋北詰から市電の通る西天神橋筋までが拡幅され現在の姿になっています。

 右の地図は現在の国土地理院地図で、市電が廃止されて地下鉄谷町線と堺筋線が通り、国道1号線にはJR東西線も地下鉄と並行して走っています。天満堀川が埋め立てられて阪神高速道路が通っています。

昭和22年と最近の地形図(今昔マップ)

 次に、グーグルマップを利用して空中写真と最新の地図を見てみましょう。文化3年(1806)の古地図と重ねて見ることもできます。古地図は正確な測量に基づくものではないため、多少のズレはありますが、大まかな位置関係を確認できて便利です。

グーグルの空中写真
古地図と空中写真の合成

 次は最新のグーグルマップです。地下鉄の駅や路線の位置もよくわかります。京阪中之島線も描かれています。

グーグルマップ

 古地図とグーグルマップを重ねると、天神橋はほぼ正しく重なり、難波橋は現在の橋より一筋西に、天満橋は現在の橋より一筋東に架かっています。堀川と高速道路もほぼ重なっています。古地図の東西方向の位置関係はほぼ正確であることが分かります。

 一方、地下鉄とJR東西線が通る国道1号線は、天満天神を一部切り取り、星合池よりも南側を通っていますが、これは、古地図の方が南北方向に伸びた形で描かれていることが原因と推定されます。こうしたズレには注意が必要ですが、まち歩きの際に付近に昔は何があったのかを確認できて便利です。

古地図とグーグルマップの合成

 最後に、架け替えられる前の難波橋(難波橋筋に架かっていました)と新しく架けられた橋の両方が描かれている地図をご紹介します。大正3年(1914)発行の「大阪市内詳細図」です。
 新しく架けられた橋の名前は「大川橋」となっています。元の難波橋が撤去されたのち、新しい橋が名前を継承しました。そのため、堺筋に架かっているのに難波橋となりました。


大正3年大阪市内詳細図(国際日本文化研究センター蔵)

 現在の難波橋付近を写真で見てみましょう。

難波橋から中之島バラ園を見る
難波橋の顕彰板
難波橋の親柱、左奥は京阪中之島線なにわ橋駅
難波橋のライオン像(向かって左)、文字は「かな」
左手のライオンは口が開いている「阿像」
難波橋のライオン像(向かって右)、文字は漢字
右手のライオンは口が閉じている「吽像」
今年完成した「こども本の森」
京阪中之島線なにわ橋駅、後方は「こども本の森」

 今回は、「浪華の賑ひ」の「難波橋」をご紹介し、周辺地域の変遷を見てきました。今昔館8階展示室の床面には大きく拡大した「大阪市パノラマ地図」がありますので、「堂島」や「中之島」を確かめてください。


〇大阪くらしの今昔館からのお知らせです。

開館のお知らせ 令和2年6月3日(水)~


 大阪市立住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」では、新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、2月29日(土)より臨時休館を継続してまいりました。去る5月14日(木)に公表された大阪府緊急事態措置において、府が定める標準的対策を遵守することを条件に、施設の休止要請が解除されたことを受け、大阪市と協議を重ねた結果、6月3日(水)より再開させていただく運びとなりました。ご来館を心待ちにしておられた皆さまには、長期の休館により多大なご迷惑をおかけしましたことを深くおわび申し上げます。

 再開にあたっては、感染症拡大防止の観点から、いわゆる「3密」状態の防止やアルコール消毒の実施など十分な予防対策に努めてまいります。これに伴い、ご来館のみなさまにも、体温検査やマスクの着用などの入館並びに観覧時にご協力いただくことがございます。たいへんご不便をおかけしますが、ご理解・ご協力のほど、お願い申し上げます。 なお、詳しくは今昔館のホームページ等でご案内させていただきますので、ご来館の際には必ずご確認くださいますようお願い申し上げます。


〇大阪くらしの今昔館「なにわの町並み編」
 今昔館の見どころを動画でご紹介しています。今回は「なにわの町並み編」です。
https://www.youtube.com/watch?v=eLFLvGgxj3o


 今昔館の江戸時代のフロアをご紹介する動画は4編あります。
http://konjyakukan.com/link_pdf/what's%20this%20.pdf


 このほかに「天神祭となにわの町」をご紹介する動画があります。
https://www.youtube.com/watch?v=3or8fq4U8zE&feature=youtu.be


 また、今昔館の近代のフロアをご紹介する動画が2編あります。
https://www.youtube.com/watch?v=SbqzmybwKss&feature=youtu.be

https://www.youtube.com/watch?v=EohP-xqrOi4


〇「今昔館のオンライン まなびプログラム」が公開されています
 大阪くらしの今昔館は、6月3日(水)より再開の予定ですが、休館が長引いています。大阪のまちと住まいや くらしのことを おうちで学んでみませんか?
 こちらからどうぞ。
 ⇒konjyakukan.com/link_pdf/今昔館のオンラインまなびプログラム.pdf



 大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからご覧ください。
http://konjyakukan.com/index.html


 「今週の今昔館」の第1回から第52回までは、「古地図で愉しむ大阪まち物語」に掲載しています。
 「今週の今昔館」の第1回はこちらからご覧ください。
http://osakakochizu.blogspot.com/2016/08/blog-post_5.html


 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。

「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。
http://www.sumai-machi-net.com/
初めての方はこちらからどうぞ。
http://www.sumai-machi-net.com/howtouse


2020年5月19日火曜日

今週の今昔館(216) 堂島濱 20200519

〇浪華の賑ひに見る江戸時代の大坂(47)

 今回は「浪華の賑ひ」の「堂島濱」をご紹介します。

■堂島濱
 この地は浪花の北にありて、諸国の米穀をあきなふ市場なり。年の豊凶、時候の幸災、天地の順・不順によりてその価の尊きあり、卑しきあり。その極を市●(ごんべんに貝)(そうば)といふ。さる程に左右ともに潔き家宅(いへいへ)軒をならべ売買の客を請待す。これを相庭店(そうばみせ)といふ。
 客ここに有って、使人(つかひど)を以て売買を自由にす。朝を寄付(よりつき)といひ、昼の休みを消(きえ)といふ。夕の終りを大引(おほひき)と号す。されば早旦より夕日西にうすづく頃まで市人浜に群れ集ひ、指頭(ゆびさき)を揺(うご)かして、数百万の斛数(こくすう)を相対す。そのすさまじき事鼎(かなへ)の沸くがごとし。その繁昌すること浪花の一奇観といふべし。

浪華の賑ひ「堂島濱」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)


 浪花の賑ひの本文には、堂島浜について、次のような記載があります。

■堂島浜
 浪花の北方に有り
 貞享年間、この地開け、元禄中、大江橋・渡辺橋・田蓑橋・玉江橋等を初めて架(わた)せり。米穀の市場は大江橋北詰より渡辺橋の間にあり。これを相庭(そうば)の浜といふ。
 この東西の両側は残らず相庭屋にして、屋の上に物見の台を作り、市人ここに登りて、雲気(くもゆき)を考ふ。晴雨寒暖により日毎に米価の高下ありて、売買の賑はしき事、言語に絶す。実に他邦に比類なき市といふべし。


 「浪花百景」には、「堂じま米市」があります。

■堂じま米市(国員画)
 米取引はもと米商人淀屋の自主運営で行われていました。
 諸国米市場の中心的存在であった堂島米市場は、元禄10年(1697)に開発されたばかりの堂島新地に中之島の米市場が移転して成立しました。堂島米相場会所は公的機関として認可され、ここで立てられた相場は全国の基準となり、いつしか「堂島」といえば米相場を意味するようになりました。
 諸国の蔵屋敷に運び込まれた蔵米は、実際には米切手の入札によって仲買に払い下げられる先物取引。早朝火縄に火が点され、夕方水を撒いて消されるまで、仲買のすさまじい雑踏と熱気の中で立会いを行いました。相場を混乱させないようにとの配慮から、米相場の立会い中は役人も市場を通行できず、犯罪人が逃げ込んでも逮捕できませんでした。大阪経済隆盛の主役は米市場にありました。現在、米市場跡の記念碑が立っています。
 錦絵は、仲買人の足元とその様子を眺める人物だけが描かれた面白い図柄となっています。米市場は米切手を取引する市場ですので、現場には実物の米俵はありません。

浪花百景「堂じま米市」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)

 江戸時代天保年間発行の「浪華名所獨案内」を見ると、地図の中央部、堂島と中之島の間に架かる「大江バシ」と「ワタナベバシ」の中間あたり、北岸の堂島に米市場がありました。地図にも大きな文字で記載されています。「八木」に見えますが、「米」です。堂島は、堂島川と蜆川(曽根崎川)に囲まれた文字通り「島」でした。この地図は、東が上に書かれています。北を上にしましたので文字は右を向いています。

浪華名所獨案内(「津の清」蔵)

 次に、天保8年(1837)発行の天保新改攝州大坂全圖を見ると、堂島川に「大江バシ」と「渡辺橋」が架かり、2つの橋の中間あたり堂島川の北岸に米市場がありました。地図には表示はありません。堂島や中之島には多くの藩の蔵屋敷が林立していました。

天保新改攝州大坂全圖(国際日本文化研究センター蔵)

 大正13年発行の大阪市パノラマ地図を見ると、堂島と中之島の間に「大江橋」と「渡辺橋」が架かり、その中間の北岸に「米穀取引所」が描かれています。

大阪市パノラマ地図(大阪くらしの今昔館蔵)

 昭和12年発行の大大阪観光地図を見ると、堂島には「毎日新聞社」が大きく描かれています。その南側に「米穀取引所」の文字が見えます。対岸の中之島には、日本銀行、中央郵便局があります。これらの敷地はもとは各藩の蔵屋敷でした。

大大阪観光地図(国際日本文化研究センター蔵)

 今昔マップ3を利用して、周辺地域の変遷を見てみます。
 左上の明治42年では、堂島川から北側一帯が白くなっており、北の大火によって焼失した地域であったことが分かります。地図の右側は、明治41年のものですので、焼失前の様子が描かれています。中之島には東西に市電が走っていますが、右側はまだ通っていません。
 右上の昭和7年を見ると、地域一帯は復興が進み市街地が広がっています。堂島の北側にあった蜆川(曽根崎川)は埋め立てられ、川の跡地は堂島の敷地に取り込まれています。2つの橋の中間あたりに「米穀取引所」の文字があります。御堂筋と四つ橋筋、中之島通りに市電が走っています。
 左下の昭和42年を見ると、堂島川の上を阪神高速道路が通っています。市電はすべて廃止されています。
 右下の平成8年では、大江橋と渡辺橋の間に「中之島ガーデンブリッジ」が架かっています。この橋の北詰が米市場のあった場所で、記念碑が建っています。

明治42年から平成8年の地形図
(今昔マップ3より)

 堂島米市場があった辺りは現在どのようになっているのか。写真で見てみましょう。堂島米市場は中之島ガーデンブリッジの北詰、ANAホテルが建っている場所にありました。一昨年、建築家安藤忠雄氏のデザインによる新しいモニュメント「一粒の光」が設置されました。「一粒の米」ではありません。(笑)

堂島米市場跡モニュメント「稲に遊ぶ子供」(以前の様子)
新しいモニュメントの設置工事中(平成30(2018)年10月)
新しく設置されたモニュメント「一粒の光」
「稲に遊ぶ子供」は橋の西側に移設されました
堂島川に架かる「中之島ガーデンブリッジ」
平成2年に架けられた新しい橋です
ガーデンブリッジは歩行者専用です
正面はANAホテル
ガーデンブリッジの北詰
ANAホテルの所に米市場がありました
写真右下に米市場跡のモニュメント

 今回は、「浪華の賑ひ」の「堂島濱」をご紹介し、周辺地域の変遷を見てきました。今昔館8階展示室の床面には大きく拡大した「大阪市パノラマ地図」がありますので、「堂島」や「中之島」を確かめてください。


〇大阪くらしの今昔館からのお知らせです。

 開館のお知らせ 令和2年6月3日(水)~


 大阪市立住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」では、新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、2月29日(土)より臨時休館を継続してまいりました。去る5月14日(木)に公表された大阪府緊急事態措置において、府が定める標準的対策を遵守することを条件に、施設の休止要請が解除されたことを受け、大阪市と協議を重ねた結果、6月3日(水)より再開させていただく運びとなりました。ご来館を心待ちにしておられた皆さまには、長期の休館により多大なご迷惑をおかけしましたことを深くおわび申し上げます。

 再開にあたっては、感染症拡大防止の観点から、いわゆる「3密」状態の防止やアルコール消毒の実施など十分な予防対策に努めてまいります。これに伴い、ご来館のみなさまにも、体温検査やマスクの着用などの入館並びに観覧時にご協力いただくことがございます。たいへんご不便をおかけしますが、ご理解・ご協力のほど、お願い申し上げます。 なお、詳しくは今昔館のホームページ等でご案内させていただきますので、ご来館の際には必ずご確認くださいますようお願い申し上げます。


〇「今昔館のオンライン まなびプログラム」が公開されています
 大阪くらしの今昔館は6月3日(水)より再開の予定ですが、休館が長引いています。大阪のまちと住まいや くらしのことを おうちで学んでみませんか?
 こちらからどうぞ。
 ⇒konjyakukan.com/link_pdf/今昔館のオンラインまなびプログラム.pdf


〇大阪くらしの今昔館「町家の商い編」
 館の見どころを動画でご紹介しています。今回は「町家の商い編」です。
https://www.youtube.com/watch?v=kUQlQjGQpVE


 今昔館の江戸時代のフロアをご紹介する動画は4編あります。
http://konjyakukan.com/link_pdf/what's%20this%20.pdf


 このほかに「天神祭となにわの町」をご紹介する動画があります。
https://www.youtube.com/watch?v=3or8fq4U8zE&feature=youtu.be


 また、今昔館の近代のフロアをご紹介する動画が2編あります。
https://www.youtube.com/watch?v=SbqzmybwKss&feature=youtu.be

https://www.youtube.com/watch?v=EohP-xqrOi4



 大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからご覧ください。
http://konjyakukan.com/index.html


 「今週の今昔館」の第1回から第52回までは、「古地図で愉しむ大阪まち物語」に掲載しています。
 「今週の今昔館」の第1回はこちらからご覧ください。
http://osakakochizu.blogspot.com/2016/08/blog-post_5.html


 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。

「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。
http://www.sumai-machi-net.com/
初めての方はこちらからどうぞ。
http://www.sumai-machi-net.com/howtouse


2020年5月12日火曜日

今週の今昔館(215) 鬼子母神 20200512

〇浪華の賑ひに見る江戸時代の大坂(46)

 今回は「浪華の賑ひ」の「鬼子母神」をご紹介します。

■鬼子母神
 この地は浜村にして源光寺の辺りなり。霊験あらたなりとて遠近より歩みをはこぶ人間断なく宝前の供物・献灯・香花の甚だしきは言うも更なり。詣人むれて題目・自我偈方便品(じがげほうべんぼん)など唱ふる声いとかしがまし。
 さる程に、参詣の道すぢには爽やかなる茶店・貨食家(りょうりや)建てつらなりて、信者の支度、遊参の休息を饗応(もてな)す。わけて例月八日群衆して賑はし。いはゆる浪花北方の流行神(はやりがみ)といふべし。

浪華の賑ひ「鬼子母神」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)


 浪花の賑ひの本文には、源光寺について、次のような記載があります。

■源光寺
 南浜村にあり
 清浄瑠璃三昧院と号す。浄土宗無本寺にして堂宇巍巍たり。本尊天筆阿弥陀如来、長(みたけ)一尺九寸、法明上人感得したまふ所とぞ。
 いはゆる浪花北方の霊場なり。俗に浜の寺といふ。また、この辺の田圃(でんぽ)の中に権現松とて四面(めぐり)に枝葉繁茂する古松あり。


 「浪花百景」には、「浜村鬼子母神」があります。

■浜村鬼子母神(国員画)
 浜村鬼子母神は、淀川左岸に位置する南浜村の内、現在豊崎2丁目にある源光寺の南側にあり、正式名称は日蓮宗慶住院。ここに安置された鬼子母神像は子宝・安産・夫婦和合・子どもの守護神として、近隣だけでなく遠方からも多数の参詣者が訪れ、付近に茶店や料理屋ができるほどであったといわれます。周辺には大坂七墓の一つ「浜の墓地」があり、寺院の集まる地域でもありました。
 現在慶住院は摂津丘陵の山間部、高槻市摂津峡に移転しましたが、江戸時代に奉納された灯籠なども移されており、当時の賑わいぶりを偲ぶことができます。しかし、元の場所には地名すら残っていません。

浪花百景「浜村鬼子母神(国員画)」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)

 江戸時代天保年間発行の「浪華名所獨案内」では、北野、太融寺あたりまでが地図の範囲に入っていますが、浜村の記載はありません。この地図は、東が上に書かれており、北を上にしましたので文字は右を向いています。

浪華名所獨案内(「津の清」蔵)

 天保8年(1837)発行の天保新改攝州大坂全圖でも、「太融寺」や「北ノ天神」は描かれていますが、浜村は範囲に入っていません。

天保新改攝州大坂全圖(国際日本文化研究センター蔵)

 文化3年発行の増修改正摂州大阪地図を見てみましょう。太融寺と中津川の間に濱村が描かれています。

増修改正摂州大阪地図(ラムゼイコレクションより)

 もう少し拡大して見てみましょう。濱村の南に源光寺があり、東に延びる道の先に濱墓所が描かれています。源光寺の南に、妙楽寺と祐泉寺というお寺が描かれています。名前は異なりますが、このあたりには、お寺が集まっていたことが確認できます。

増修改正摂州大阪地図(ラムゼイコレクションより)

 大正13年発行の大阪市パノラマ地図を見ると、国鉄の上を阪神北大阪線が跨いでいます。南濱に停留所があり、その西北に源光寺が描かれています。源光寺から南濱墓地へ向かう道路が国鉄を踏切で渡っています。阪神を挟んで南側に描かれている寺が慶住院です。源光寺の西には、梅花女学校が描かれています。

大阪市パノラマ地図(大阪くらしの今昔館蔵)

 昭和12年発行の大大阪観光地図を見ると、国鉄線が高架になりその下を阪神北大阪線が走っています。南浜停留所の北西に「源光寺」、南西に「鬼子母神」の文字が見えます。その南にある境界線は北区と東淀川区の区境界です。地図の左端には阪急電車の高架線と平面の北野線が描かれています。

大大阪観光地図(国際日本文化研究センター蔵)

 地形図でも確認してみましょう。明治18年の陸地測量部地図を見ると、国鉄線の西に南濱村があり、南北に2つの寺が並んでいます。北が源光寺、南が慶住院です。源光寺から東に鉄道を渡る道路があり、その先に南濱墓地があります。周りは中国街道が通っているほかはほとんどが田畑です。

明治18年陸地測量部地図
(国際日本文化研究センター蔵)

 今昔マップ3を利用して、その後の南濱周辺の変遷を見てみます。
 左上の明治41年では、南濱村と街道沿いに家屋がありますが、田畑が多くあります。梅花女学校、北野中学校の文字が見えます。阪急電鉄の前身の箕面有馬電気軌道の線路が見えます。
 右上の昭和7年では、市街地化が進み、東西に阪神北大阪線、天神橋筋六丁目から南西方向と南北に市電が走っています。国鉄の線路と、阪急の高架線と平面の北野線が見えます。

明治41年から昭和42年の地形図
(今昔マップ3より)

 左下の昭和22年を見ると、地図の白い部分は戦災の被害を受けて建物が焼失しています。阪神北大阪線より南側は戦災を免れています。
 右下は昭和42年ですが、南北に新御堂筋が通り、国鉄との間に阪神北大阪線を挟んで、北側に源光寺、南側に慶住院があります。南浜町、中崎町などの地名が見えます。

 慶住院の移転先を地図で確認してみます。赤い丸印が慶住院の移転先、緑の丸印はJR高槻駅です。その間を東西に横切っている幅の広い道路は名神高速道路です。

明治42年から平成8年の地形図
(今昔マップ3より)

 赤丸の部分を拡大したものです。三好山の東側、川が蛇行している所にある寺が慶住院です。昭和51年に移転していますので、左下の昭和54年以降の地図に描かれています。摂津峡のハイキングコース沿いにあります。

明治42年から平成8年の地形図
(今昔マップ3より)

 現在の慶住院の様子を、ホームページで見てみました。

現在の慶住院
現在の慶住院
慶住院の移転を記す石碑

 慶住院があった元の位置付近の現況を写真で見てみましょう。1枚目は現在の源光寺です。阪神北大阪線が走っていた道路を現在は阪神バスが走っています。南濱バス停のすぐ北側に源光寺があります。

現在の源光寺
源光寺の山門
東が正面になっています。
源光寺から南濱墓地に通じる道路。
JRの高架下を通り抜けています。
阪神バス南濱バス停
慶住院があった場所は南濱バス停の南側になります。
現在はマンションが建っています。

 今回は、「浪華の賑ひ」の「浜村鬼子母神」をご紹介し、周辺地域の変遷を見てきました。今昔館8階展示室の床面には大きく拡大した「大阪市パノラマ地図」がありますので、「慶住院」や「源光寺」を確かめてください。


〇大阪くらしの今昔館からのお知らせです。

 当面の間、臨時休館を延長します


 新型コロナウイルス感染症の拡大防止の観点から、当面の間、臨時休館を継続いたします。
 当館の展示を楽しみにして下さっている皆様には申し訳ありませんが、ご理解のほどよろしくお願いいたします。
 なお、今後の予定につきましては、国や大阪市の動向、感染症の拡大状況を注視しつつ決定し、ホームページにおいてお知らせします。



〇大阪くらしの今昔館「町家のくらしとおもてなし」
 今昔館の休館が長引いていますので、館の見どころを動画でご紹介します。今回は「町家のくらしとおもてなし」です。
https://www.youtube.com/watch?v=54ItUFyKUkM 


 今昔館の江戸時代のフロアをご紹介する動画は4編あります。
http://konjyakukan.com/link_pdf/what's%20this%20.pdf


 このほかに今昔館の近代のフロアをご紹介する動画が2編あります。
https://www.youtube.com/watch?v=SbqzmybwKss&feature=youtu.be

https://www.youtube.com/watch?v=EohP-xqrOi4



 大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからご覧ください。
http://konjyakukan.com/index.html


 「今週の今昔館」の第1回から第52回までは、「古地図で愉しむ大阪まち物語」に掲載しています。
 「今週の今昔館」の第1回はこちらからご覧ください。
http://osakakochizu.blogspot.com/2016/08/blog-post_5.html


 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。

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