2020年7月28日火曜日

今週の今昔館(226) 川崎 桜宮 20200728

〇淀川両岸一覧にみる江戸時代の大坂(6)

 「淀川両岸一覧」は、大坂から京都までの淀川沿いの名所旧跡を挿絵を添えて紹介した船旅の案内書で、文久元年(1861)に刊行されました。暁晴翁の著述、松川半山の画図によるものです。

 淀川両岸一覧(上り船之部)に沿って、約160年前の江戸時代の大坂から京都までの淀川南岸(左岸)沿いの風景を訪ねていきます。今回は「川崎 桜宮」をご紹介します。

■川崎、桜宮
 網島の絶景の眺望を見渡しながら漕ぎ進むと、桜宮の川岸に至ります。ここはその名の通り、桜並木で有名な神社があり、それが転じて地名となりました。
 『摂津名所図会大成』によれば、この桜宮は、元々旧大和川堤の桜野というところにあったのを後にここに移し、桜野にちなんで桜宮と称したことから境内に数百株の桜を植えたところが、その名の通りの桜宮になったと記されています。その見事さと言えば、川岸の満開の桜花は雲とも雪とも見違えるほどで、またこの桜が川面に映えて美しく、花の芳香が四方に漂い、当時の大坂で最高のお花見の名所でした。
 大阪を代表する桜の名所大川沿いの桜宮。絵は右岸から左岸方向を眺めた風景です。絵の対岸に見えるのは、右が馬場、左が社前の鳥居です。桜宮について、本文は次のように解説します。

■桜宮
 網島の北にあり。例祭九月二十一日なり。
 祭るところ天照皇太神にして、宮づくりの光景伊勢を模せり。当社は淀河の東岸にありて、境内は言も更」なり。水辺より馬場の堤に至るまで一円の桜にして、晩春の花の盛には雲と見、雪と疑ふ風景なり。

■桜之渡口
 右社頭の上の方にあり。川崎の浜への舟わたし也。此の渡船は弥生の花の頃のみ有て、常はあらず。故に桜のわたしと号す。


 春季限定の桜を楽しむための臨時の渡し船。絵を見ると、右中央に渡し船が描かれています。しかし、それより多いのが、桜見物の御座船。春風に吹かれながら、川面から眺める桜を堪能するという趣向です。また、両岸にも多くの露店が並びます。右下の提灯には「汁」、左下は「でんがく」の文字。花も団子も、同時に味わうことができました。

淀川両岸一覧上船之巻「川崎 桜宮」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)

 絵の賛には、狂歌と発句。
 ちりながら/流れもやらで/網島に/かかる桜の/宮のはる風 正裕
 ひととせの/栄花とりこす/花見かな 翠翁

淀川両岸一覧上船之巻「其二」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)

 「其二」の解説は次のように記しています。
 桜宮の西岸は天満の川崎なり。登舟の水主等(かこら)此所より上陸し、木村堤を長柄の三ツ頭まで凡一里の間引きのぼり、夫れより船にのりて東堤へよする。

 花見の屋形船で賑わう川面を縫うように、船頭は船を西岸の天満川崎へ寄せます。船頭らはここから上陸し、長柄の三ツ頭まで一里ほど引き上げます。東岸を削る水勢が強いのでしょう。ここで初めての曳き舟となります。
 絵の左下に岸から綱で舟を曳くようすが描かれています。綱をたどると船の本体は「川崎 桜宮」の絵の左下に見えます。

 花を見に/京へとくとく/綱手なは/夢をも引て/ゆくのぼり船 貞柳
 寝た顔を/撫る柳や/のぼり船 西柳亭


 「川崎 桜宮」と「其二」は、2枚並べるとつながるパノラマの図柄になっています。

「川崎 桜宮」(右)と「其二」(左)
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)


 「浪華の賑ひ」にも「櫻宮」がありますので、ご紹介します。

■櫻宮
 桜の宮は淀川の東の岸にありて社頭はいふもさらなり、水辺より馬場の堤にいたるまで一円の桜にして、弥生の盛りには雲と見、雪と疑ふ光景(ありさま)、西の岸は川崎堤より北につづきて、堀川の樋の口まで、ここも桜の並木なれば、川をはさみて両岸の花、爛漫として水に映じ、川風花香を送りて、四方(よも)に馥郁たり。
 さる程に都下の貴賤老若、陸(くが)を歩み、船にて通ひて諷ふあり、舞ふありて、終日(ひねもす)遊宴す。げに浪花において花見の勝地といふべし。


浪華の賑ひ「櫻宮」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)

 「浪華の賑ひ」の本文には「桜宮」として以下のように記載されています。

 網島の北にあり
 祭るところ天照皇太神にして、例祭九月二十一日なり。当社は旧野田の小橋故大和川の堤、字を桜野といへる所に有りしを、後世ここに移す。ゆゑに旧地の名をもて、桜野宮と号せしが、いつしか社頭の傍に数百株桜を植ゑしより、今は桜の宮と称して花ゆゑ号(なづ)けしごとくなるも、いはゆる名詮自性(みょうせん-じしょう)なるべし。
 またこれより十丁ばかり川上に母恩寺といふ女僧寺(あまでら)あり。尼僧常に綿帽を製す。すこぶる光美(つやけく)して名物なり。
 当寺の北東なる田圃の中に鵺塚(ぬえづか)といへるあり。頼政の射留めし化鳥を埋めむ所と云ふ。


 浪花百景にも「さくらの宮景」がありますので、見てみましょう。

■さくらの宮景(国員画)
 桜宮の創建については不詳ですが、たびたびの淀川の洪水を受けて社殿が流出、そのたびに移転したようです。当地への遷座は宝暦6年(1756)とされ、桜野という地名にあやかって努めて桜を植え、境内から大川堤まで続く桜の景勝を整えました。
 花の季節には雲か雪かと見間違う程見事な景色だったと伝えられ、境内の前から対岸の川崎・木村堤へ渡しが出され、桜の渡しと呼ばれました。また川を埋めるほどの屋形船が仕立てられて、様々に爛漫の春を楽しみました。川風に運ばれて辺り一帯に馥郁たる香りが広がり、「摂津名所図会大成」は、「浪花において花見随一の勝地といふべし」と記しています。浪花随一の花見の名所は今も変わりません。
 また堤の下に青湾と称される小湾があり、ここの水は大変きれいだったため、茶の湯に最も適すると雅人に愛用されました。

浪花百景「さくらの宮景(国員画)」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)

 桜宮は、浪華の賑ひ、浪花百景のほかにも、多くの文献に取り挙げられています。
 『摂津名所図会大成』には「当社其初ハ野田の小橋故大和川の堤の字(あざな)を桜野といふ所にありしを後世こゝに迁(まわ)すゆへに旧地の名を以て桜野宮と号せしがいつしか境内のほとりに数百株の桜を植しより今ハ桜の宮と称して花ゆへなづけし如くなる」「浪花において花見第一の勝地なり」とあります。

 また、『摂津名所図会』には「この社頭に神木とて桜多し。弥生の盛りには、浪花の騒人ここに来つて幽艶を賞す。淀川の渚なれば、きよらなる花の色、水の面にうつるけしき、塵埃を避けて神慮をすずしめ奉るなり」「咲くからに見るからに花の散るからに」と賞され、文人に愛される桜の名所でした。

摂津名所図会「櫻宮」
大阪市立図書館デジタルアーカイブ


 江戸時代天保年間発行の「浪華名所獨案内」を見ると、「天満バシ」の右手(東側)に「野田村」があり、その北側に「大長寺」、さらに北に「櫻ノ宮」があります。対岸の川崎御蔵との間を「源八ワタシ」が結んでいます。この地図は、東が上に書かれており、北を上にしましたので文字は右を向いています。

浪華名所獨案内(「津の清」蔵)

 次に、天保8年(1837)発行の天保新改攝州大坂全圖を見ると、「野田村」と「中野村」の間に「櫻ノ宮」があります。脇を水路が流れていました。対岸には「木村ツツミト云」の文字が見えます。木村堤も桜の名所として有名でした。

天保新改攝州大坂全圖(国際日本文化研究センター蔵)

 大正13年発行の大阪市パノラマ地図を見ると、「泉布観」「三菱精錬所」の対岸に「櫻ノ宮」が描かれています。桜之宮橋の架橋前で、木製の「よどかわばし」が架かっています。

大阪市パノラマ地図(大阪くらしの今昔館蔵)

 昭和12年発行の大大阪観光地図を見ると、「桜ノ宮公園」の北側に「桜ノ宮」の文字が見えます。東野田町、中野町の地名も見えます。

大大阪観光地図(国際日本文化研究センター蔵)

 今昔マップ3を利用して、周辺地域の変遷を見てみます。
 左上の明治41年では、「淀川橋」の北側に「桜宮」の文字が見えます。東野田、中野の地名も見え、農地が拡がるなかに「あみじま」駅があります。ここから関西鉄道の名古屋行直通列車が走っていました。「さくらのみや」駅の北には水源地が描かれています。大阪市の水道発祥の地です。
 右上の昭和4年では、南北に市電が走り網島駅の跡地に「工業大学」が建ち、周辺の市街化が進んでいます。水源地の跡が淀川貨物駅になっています。

明治41年から昭和22年の地形図と現在の空中写真
(今昔マップ3より)

 左下の昭和22年を見ると、白くなっている部分が戦災によって焼失した地域で、この地域は大きな被害を受けています。「櫻ノ宮」の文字は見えます。
 右下は最近の空中写真です。大川沿いに河川公園が整備され、その脇に桜宮の緑も写っています。

 現在の櫻宮の状況です。大川の自然堤防上に鳥居、本殿が並び、境内には、江戸時代献納の灯籠や、往来安全の石碑、伊勢神宮の遥拝石などが残っています。

現在の櫻宮の鳥居
櫻宮の拝殿
寛政元年献納の灯籠
「往来安全」の石碑
伊勢神宮の遥拝石

 大川河川敷の桜之宮公園に「青湾」の碑があります。文久2年(1862)に建てられたものと伝えられています。

桜之宮公園にある「青湾」の碑
「青湾」の史跡案内板
桜之宮公園の案内図(右が北)

 今回は、「淀川両岸一覧」の「川崎 桜宮」をご紹介しました。今昔館8階展示室の床面には大きく拡大した「大阪市パノラマ地図」がありますので、桜宮付近の様子を確かめてください。


〇企画展「大阪くらしの今昔館所蔵品展『歳時記と祝い事』」は、7月23日から開催しています

 令和2年7月23日(木・祝)~9月6日(日)

 大阪くらしの今昔館ではこれまで、住宅や建築に関する歴史資料、祭礼や年中行事に関する絵画資料など、大阪の伝統的な建築文化および歴史文化を伝える資料の収集に努めてきました。本展ではこれまでに収集した館蔵品の中から「歳時記」と「祝い事」に関連する絵画資料、染織資料、工芸品、節句飾りなどを展示します。

 季節にあわせて飾られた掛軸や屏風、節句飾りや年中行事に用いられた漆器、贈答用の袱紗、通過儀礼の際に身に纏った宮参りや婚礼の衣装など「ハレの日」を彩った100点余りを選びました。 五節句や年中行事、人の一生の節目にあたる儀礼など、大阪の人々が大切に守ってきた生活文化に触れていただきます。

浪花行事十二月 七夕月
二代長谷川貞信
花嫁衣裳 扇面四季花鳥模様振袖
花嫁衣裳 揚羽蝶円紋金襴菱木打掛
雛飾り台所道具
住吉をどり 菅楯彦


〇大阪くらしの今昔館は6月3日(水)から開館しています

 再開にあたっては、十分な予防対策に努めてまいります。これに伴い、ご来館のみなさまにも、体温検査やマスクの着用などの入館並びに観覧時にご協力いただくことがございます。たいへんご不便をおかけしますが、ご理解・ご協力のほど、お願い申し上げます。なお、詳しくは、こちらをご確認ください。

 今昔館では、当面の間、以下の催し物の開催を中止しています。
・町家ツアー(ボランティア等による展示解説)
・着物体験
・上方芸能・文化体験(町家寄席、お茶会など)
・町家衆による各種ワークショップ
・ギャラリートーク、講演会



〇江戸時代の疫病退散-天神祭の宵宮飾り

 本来ならば、7月24日は天神祭の宵宮、25日は本宮でした。
 今年の天神祭は、新型コロナウィルス対策のため、神職による神事のみの開催になり、陸渡御・船渡御・奉納花火はありませんでした。
 天神祭は元々は疫病退散を願う年中行事でしたから、コロナの禍中の今こそ大切な行事です。
 大阪くらしの今昔館の近世常設展示室(江戸時代のフロア)では200年前の天神祭の宵宮飾りと疫病退散にまつわる展示を行っています。

御迎人形「酒田公時(金太郎)」(大阪天満宮蔵)
疫病神(疱瘡神)は赤色を 嫌うと信じられていました
流行り病に打ち勝つ! 鍾馗さんや神農さんの掛軸を飾る
呉服屋での展示の様子
コレラ退治の虎
張子の虎が、店の表で 皆さんをお出迎え


〇【動画】江戸時代の疫病退散 -今昔館の天神祭
 こちらからご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=eOBkOPeM5MU&feature=youtu.be



〇大阪くらしの今昔館の紹介動画
 今昔館の江戸時代のフロアをご紹介する動画は4編あります。全4編の目次はこちらからどうぞ。
 こちらから、見たい部分だけを見ることができます。英語の字幕入りの動画を見ることもできます。
http://konjyakukan.com/link_pdf/what's%20this%20.pdf


 このほかに「天神祭となにわの町」をご紹介する動画があります。
https://www.youtube.com/watch?v=3or8fq4U8zE&feature=youtu.be


 また、今昔館の近代のフロアをご紹介する動画が2編あります。
https://www.youtube.com/watch?v=SbqzmybwKss&feature=youtu.be

https://www.youtube.com/watch?v=EohP-xqrOi4


〇「今昔館のオンライン まなびプログラム」が公開されています
 大阪のまちと住まいや くらしのことを おうちで学んでみませんか?
 こちらからどうぞ。
 ⇒konjyakukan.com/link_pdf/今昔館のオンラインまなびプログラム.pdf



 大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからご覧ください。
http://konjyakukan.com/index.html


 「今週の今昔館」の第1回から第52回までは、「古地図で愉しむ大阪まち物語」に掲載しています。
 「今週の今昔館」の第1回はこちらからご覧ください。
http://osakakochizu.blogspot.com/2016/08/blog-post_5.html


 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。

「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。
http://www.sumai-machi-net.com/
初めての方はこちらからどうぞ。
http://www.sumai-machi-net.com/howtouse


2020年7月21日火曜日

今週の今昔館(225) 網島 20200721

〇淀川両岸一覧にみる江戸時代の大坂(5)

 「淀川両岸一覧」は、大坂から京都までの淀川沿いの名所旧跡を挿絵を添えて紹介した船旅の案内書で、文久元年(1861)に刊行されました。暁晴翁の著述、松川半山の画図によるものです。

 淀川両岸一覧(上り船之部)に沿って、約160年前の江戸時代の大坂から京都までの淀川南岸(左岸)沿いの風景を訪ねていきます。今回は「網島」をご紹介します。

 以下は、「淀川両岸一覧」の本文です。

■網島
 備前島の東につづく。網島町といふ。
 この地は淀川の側なるゆゑ前には淀川の流れ潔く、浪花の通船・釣舟・網舟・遊参の楼船、終日往来し、東には河内・大和の山々見わたりて、瞻望(せんもう)ことに絶景なり。さるほどに富家の別宅、雅人の閑居、風流の貨食家(りょうりや)等ありて、すこぶる遊楽の雅地なり。もとよりこの辺は漁家多く、常に軒端に網を干すよりして、網島と号けしなるべし。

■大長寺
 右同所にあり。浄土宗、京師黒谷に属す。
 本尊阿弥陀仏は恵心僧都の作なり。境内に鯉墳(こひづか)(「滝登鯉山(りゅうとうりさん)」と碑に刻す。)あり。幷びに鯉鱗の奇なるものあり。寺の什物とす。(縁起あり、これを略す)。これより北へ堤づたひおよそ三町ばかりにして桜宮に至る。左右桜多し。


 屋形船の三味や太鼓のお囃子を横手に聞きながら、乗合の三十石船は備前島の東に続く網島へ棹を進めています。その名の由来は、漁師の網干場が連なることから来ていますが、挿絵にはその風景はありません。むしろ、有閑雅人の別荘地としての趣が強く、漁師よりも太公望で賑わっていたのではないでしょうか。

 この網島が風雅の地として知られる理由の一つに、その眺望の良さがあります。しっぽりと薄墨色に彩られた景色の奥に、生駒の峰々がはっきりと見渡せ雄大な眺めです。『浪花のながめ』には、この辺りから京都の大文字送り火がほのかに見えたとあることからも、その絶景ぶりが計り知れます。「晴天ならねば見えがたし」との条件付きではありますが、真偽のほどは定かではありません。

 絵は現在の大川右岸から左岸の網島付近を眺めた風景です。江戸時代の網島は、淀川の流れと生駒の山並みとが見渡せる絶景ポイントだったことがわかります。ここにいう淀川は現在の大川のことで、富裕な商家の隠居と、眺望目当ての遊客と、川の恵みを糧とする漁民とが共存する土地でした。

淀川両岸一覧上船之巻「其三 網島」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)

 絵の左上部の賛は次のとおりです。

 風急にして寒涛を捲き/空と水と黯(くら)うして別ち難し/西北の雲纔(わず)かに開き/連山ことごとく雪をなす 釈慈周

 杭の雪 負けじと積もり 並びけり 沙鷗

 絵が雪景色となっているため、これらの漢詩と発句が賛に採用されたものと考えられます。

淀川両岸一覧上船之巻「其四」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)

 これに続く其四の絵には、次の二作が載っています。

 城北の網州は漁父の郷/酒楼宛として水の中央に在り/魚膾(ぎょかい)蟹螯(かいごう)乏しからざるを知りぬ/舟維ぎ得て柳糸長し 荒井公廉

 芦に舟 雪にみる物 揃ひけり 蒼虬

 漢詩は網島の風物と賑わいを、句は川面を往来する芦舟と雪の取り合わせを吟じています。絵を見ると、酒楼の脇に屋形を設えた船が浮かぶようすが見えます。屋内から眺めるもよし、船上から眺めるもよし。冬のひと日を愉しみます。冬の情景を描いているのは、淀川両岸一覧では、この2枚の挿絵のみです。大長寺は、近松門左衛門の『心中天網島』のモデルとなった紙屋治兵衛と小春が心中をした場所と云われています。


 「其三 網島」と「其四」は、2枚並べるとつながるパノラマの図柄になっています。

「其三 網島」(右)と「其四」(左)
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)


 「其三」と「其四」がつながりましたので、前回ご紹介した「其二 片町・京街道・川崎渡口」と「其三 網島」を並べて見ると、以下のようになります。
 つながっているようにも見えますが、そうでないようにも見えます。また、描かれている風景は季節が違います。其二、其三などの番号は、必ずつながるということではなく、三十石船から右手の岸を見た場合の、右から左への順番と考えたほうがよさそうです。


「其三 網島」(左)と「其二 片町・京街道・川崎渡口」(右)
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)


〇浪花百景には「あみ嶋風景」がありますので、見てみましょう。

■あみ嶋風景(国員画)
 天満紙屋治兵衛と曽根崎新地紀伊国屋の遊女小春の悲恋を描く近松門左衛門の名作「心中天の網島」で知られる網島は、眼前の大川の清き流れを船が行き交い、東に信貴生駒の山並みを一望できる景勝地で、「摂津名所図会」では「難波最上の名境なるべし」と絶賛され、行楽の人々が繰り出しました。
 東の野田村の漁師が網を干す所だったことからついた地名で、かつては大川・寝屋川・平野川が合流し、たびたび水害を起こしていました。宝永元年(1704)に大和川が付け替えられると地勢が安定し、過書船監視のための番所も置かれました。
 かつては、大川と鯰江川に挟まれていましたが、いまでは鯰江川が埋められ、旧大阪市長公館や藤田美術館が建ちます。藤田美術館は明治の実業家、男爵藤田伝三郎の邸宅跡で、昭和20年の戦災で邸宅が焼失した後、倉庫の一部を改造して美術館としたものです。

浪花百景「あみ嶋風景(国員画)」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)

 「あみ嶋風景」は、以前にご紹介した「天満ばし風景」とつながる構図になっています。右側の「天満ばし風景」には、大坂城を背景にして、天満橋を与力町・同心町のある北方面へ向かう武士の姿が描かれ、左側の「あみ嶋風景」には、桜並木を背景にして釣竿を背負った町人の姿が描かれています。別々に見ていたときには気付かなかった橋の上での生活風景を、2枚を並べて見ることによって表現する巧みな手法が使われています。

浪花百景「あみ嶋風景」と「天満ばし風景」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブより合成)

 江戸時代天保年間発行の「浪華名所獨案内」を見ると、「天満バシ」の右手(東側)に「野田村」があり、その北側に「大長寺」があります。このあたりが網島です。この地図は、東が上に書かれており、北を上にしましたので文字は右を向いています。

浪華名所獨案内(「津の清」蔵)

 次に、天保8年(1837)発行の天保新改攝州大坂全圖を見ると、「天満橋」の右手、「川崎ノ渡」と「野田村」の間に文字は小さいですが「大長寺」と「アミジマ丁」の文字が見えます。

天保新改攝州大坂全圖(国際日本文化研究センター蔵)

 大正13年発行の大阪市パノラマ地図を見ると、川崎ノ渡しの右上に大きな〇の中の文字で「網」「島」が記され、その左手には「藤田邸」が描かれています。江戸時代にはこのあたりに「大長寺」がありました。

大阪市パノラマ地図(大阪くらしの今昔館蔵)

 もう少し北側の桜ノ宮付近を見ると、泉布観から「よどがわばし」を渡り、東へ進んだところに「大長寺」が描かれています。大長寺は明治時代末にここへ移転しました。

大阪市パノラマ地図(大阪くらしの今昔館蔵)

 昭和12年発行の大大阪観光地図を見ると、「川崎渡」の右手に「網島町」の文字が見えます。

大大阪観光地図(国際日本文化研究センター蔵)

 北側の桜ノ宮付近を見ると、「東野田四」の交差点に停留所があり、その北側に「大長寺」の文字があります。その東側は「帝大工學部」とあります。「工業大学」の文字を消して書き直されています。
 大阪大学は我が国第6番目の帝国大学として昭和6年(1931)に創設され、大阪工業大学は、昭和8年(1933)に大阪帝国大学工学部となりました。この地は、かつて関西鉄道の網島駅があったところです。


大大阪観光地図(国際日本文化研究センター蔵)

 今昔マップ3を利用して、周辺地域の変遷を見てみます。
 左上の明治41年では、片町駅の北側に「網嶋」の文字があります。このあたりは農地が拡がり、北方には「あみじま」駅があります。ここから関西鉄道の名古屋行直通列車が走っていました。
 右上の昭和4年では、南北に市電が走り網島駅の跡地に「工業大学」が建ち、周辺の市街化が進んでいます。「網島」の文字が残っています。

明治41年から昭和22年の地形図と現在の空中写真
(今昔マップ3より)

 左下の昭和22年を見ると、白くなっている部分が戦災によって焼失した地域で、この地域は大きな被害を受けています。「網島」の地名は残っています。
 右下は最近の空中写真です。かつて大長寺があった地は、藤田美術館や太閤園、藤田邸跡公園などの緑が拡がっています。

 網島駅付近を拡大して見てみます。左上の明治41年では地図の中央に網島駅があり、北側に大きな池が描かれています。鉄道を通すための盛土を作るために掘られた池と言われています。
 右上の昭和4年には、地図の下部中央付近の市電の停留所の北側にお寺の記号があります。明治45年に移転してきた大長寺です。

明治41年から昭和22年の地形図と現在の空中写真
(今昔マップ3より)

 大長寺は、もとは現藤田美術館のところにありました。その土地は明治45年、豪商藤田伝三郎の邸宅用地として買収されたため現在地に移転しました。当寺の山門は、もとの位置に残っています。

 当寺には近松「心中天網島(てんのあみじま)」の主人公、小春・治兵衛の比翼塚があります。享保(きょうほう)5年(1720)10月、曽根崎新地から人目を忍び手を取りあって抜け出た2人は、曽根崎川沿いに思い出の町を通り橋を渡り網島へたどりつき心中しました。この比翼塚も寺と共に現在地へ移りました。



藤田邸跡に残る大長寺の山門
現在の大長寺の門

 享保5年(1720)10月14日、天満の紙屋の主人治兵衛と曽根崎新地の遊女小春が大長寺で心中しました。近松門左衛門がさっそくこれを浄瑠璃にしたてたのが名作「心中天網島(てんのあみじま)」で、人々が2人をあわれんで建てたのがこの比翼塚です。大長寺は、もと網島(現在の藤田美術館敷地内)にありましたが、明治42年現在の場所に移転し、それとともに塚も移されました。

比翼塚

 比翼塚のとなりには鯉塚があります。寛文8年(1668)淀川で捕らえられた巴の紋のついた大きな鯉が、見世物にされた後に死んだところ、大長寺の住職の夢枕に、大坂夏の陣で討ち死にし成仏できない武士が現れたことから、「滝登鯉山居士」の法名を与えねんごろに弔ったものと伝えられています。
 左にある「誰が袖乙吉の墓」の乙吉は網島の漁夫で、後に任侠道で名を馳せ、行状有名となリ、浪曲・講談で語り継がれたといわれます。


鯉塚

 現在の網島付近には「あみじま」の地名はほとんど残っていません。写真は、地名を留める数少ない例のひとつで、かつて網島市場があったところが「コム・アミジマ」というスーパーマーケットになっています。

コム・アミジマ
コム・アミジマ
後方にグラウンドのネットが
コム・アミジマの周辺
後方のグラウンドは阪大工学部跡地に建つ東高校

 今回は、「淀川両岸一覧」の「網島」をご紹介しました。今昔館8階展示室の床面には大きく拡大した「大阪市パノラマ地図」がありますので、網島付近の様子を確かめてください。


〇江戸時代の疫病退散-天神祭の宵宮飾り

 本来ならば、7月24日は天神祭の宵宮、25日は本宮です。
 今年の天神祭は、新型コロナウィルス対策のため、神職による神事のみの開催になり、陸渡御・船渡御・奉納花火はありません。
 天神祭は元々は疫病退散を願う年中行事でしたから、コロナの禍中の今こそ大切な行事です。
 大阪くらしの今昔館の近世常設展示室(江戸時代のフロア)では200年前の天神祭の宵宮飾りと疫病退散にまつわる展示を行っています。

御迎人形「酒田公時(金太郎)」(大阪天満宮蔵)
疫病神(疱瘡神)は赤色を 嫌うと信じられていました
流行り病に打ち勝つ! 鍾馗さんや神農さんの掛軸を飾る
呉服屋での展示の様子
コレラ退治の虎
張子の虎が、店の表で 皆さんをお出迎え


〇【動画】江戸時代の疫病退散 -今昔館の天神祭
 こちらからご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=eOBkOPeM5MU&feature=youtu.be



〇特別展「和紙の建築模型 建築起こし絵図―茶室と社寺と即位図と」は終了しました。ご来場ありがとうございました。

〇次回の企画展は「大阪くらしの今昔館所蔵品展『歳時記と祝い事』」7月23日から開催です

 令和2年7月23日(木・祝)~9月6日(日)

 大阪くらしの今昔館ではこれまで、住宅や建築に関する歴史資料、祭礼や年中行事に関する絵画資料など、大阪の伝統的な建築文化および歴史文化を伝える資料の収集に努めてきました。本展ではこれまでに収集した館蔵品の中から「歳時記」と「祝い事」に関連する絵画資料、染織資料、工芸品、節句飾りなどを展示します。

 季節にあわせて飾られた掛軸や屏風、節句飾りや年中行事に用いられた漆器、贈答用の袱紗、通過儀礼の際に身に纏った宮参りや婚礼の衣装など「ハレの日」を彩った100点余りを選びました。 五節句や年中行事、人の一生の節目にあたる儀礼など、大阪の人々が大切に守ってきた生活文化に触れていただきます。

花嫁衣裳 扇面四季花鳥模様振袖
花嫁衣裳 揚羽蝶円紋金襴菱木打掛
雛飾り台所道具
住吉をどり 菅楯彦
浪花行事十二月 七夕月
二代長谷川貞信


〇大阪くらしの今昔館からのお知らせです。

 令和2年6月3日(水)から開館しています


 再開にあたっては、十分な予防対策に努めてまいります。これに伴い、ご来館のみなさまにも、体温検査やマスクの着用などの入館並びに観覧時にご協力いただくことがございます。たいへんご不便をおかけしますが、ご理解・ご協力のほど、お願い申し上げます。なお、詳しくは、こちらをご確認ください。


〇大阪くらしの今昔館の紹介動画
 今昔館の江戸時代のフロアをご紹介する動画は4編あります。全4編の目次はこちらからどうぞ。
 こちらから、見たい部分だけを見ることができます。英語の字幕入りの動画を見ることもできます。
http://konjyakukan.com/link_pdf/what's%20this%20.pdf


 このほかに「天神祭となにわの町」をご紹介する動画があります。
https://www.youtube.com/watch?v=3or8fq4U8zE&feature=youtu.be


 また、今昔館の近代のフロアをご紹介する動画が2編あります。
https://www.youtube.com/watch?v=SbqzmybwKss&feature=youtu.be

https://www.youtube.com/watch?v=EohP-xqrOi4


〇「今昔館のオンライン まなびプログラム」が公開されています
 大阪のまちと住まいや くらしのことを おうちで学んでみませんか?
 こちらからどうぞ。
 ⇒konjyakukan.com/link_pdf/今昔館のオンラインまなびプログラム.pdf



 大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからご覧ください。
http://konjyakukan.com/index.html


 「今週の今昔館」の第1回から第52回までは、「古地図で愉しむ大阪まち物語」に掲載しています。
 「今週の今昔館」の第1回はこちらからご覧ください。
http://osakakochizu.blogspot.com/2016/08/blog-post_5.html


 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。

「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。
http://www.sumai-machi-net.com/
初めての方はこちらからどうぞ。
http://www.sumai-machi-net.com/howtouse