2020年8月26日水曜日

今週の今昔館(230) 佐太天満宮 20200826

〇淀川両岸一覧にみる江戸時代の大坂(10)

 「淀川両岸一覧」は、大坂から京都までの淀川沿いの名所旧跡を挿絵を添えて紹介する船旅の案内書です。このシリーズでは、淀川両岸一覧(上り船之部)に沿って、約160年前の江戸時代の大坂から京都までの淀川南岸(左岸:川の流れから見て左側です)沿いの風景を訪ねていきます。シリーズ10回目は「佐太天満宮」をご紹介します。守口市の北部、寝屋川市との境に近い淀川沿いにあります。

■佐太天満宮
 柴島から江口まで4km余りを引き上げられた船は、江口川(神崎川)を渡し、右岸一津屋から三島江まで8㎞余りも引き上げられます。最初から数えて4度目の曳き船です。
 三島江まで引き上げる鳥飼堤の対岸に見えるのが佐太天満宮で、この付近の産土社です。
 挿絵は雨の景色を描いています。突然の雨に慌てて帆を下ろす過書船の荷船の姿が描き出されています。その向こう岸に鳥居が建ち、その整然たるたたずまいに乗合の船客の中には、船の中から拝む人も多かったと言います。絵には描かれていませんが、その奥の社殿は堂々たる風格があったことは想像に難くありません。
 当社は社前の勅梅が有名で、慶安元年(1648)に再興の頃、卯月の末に後水尾天皇から寄付された二枝の梅を社前の木に接ぎ木したところ、時ならぬ花を咲かせ見物客が押しかけたと伝えられ、
 家の風 世々につたへて 神垣や たへたるをつく 梅もにほはむ
の後水尾天皇御製の句が残っています。

淀川両岸一覧上船之巻「佐太天満宮」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)

 絵の上部にある賛は、狂歌と漢詩です。

 よど河の 船のとまりの 寝つかれず 只ふるさとに 心引かれて 江戸寿安

 扁舟競ひ買ひて皇都に泝(さかのぼ)る/山郭水邨景おのおの殊なり/精細に看来たりて佳境に入る/清明に画き出だす上河の図 荒井公廉


 本文の佐太天満宮の前後には、以下のような説明があります。佐太天満宮については、長文ですが全文引用しておきます。後水尾天皇御製の句と親王の副え書きについて、詳しく記載されています。

■一番村
 二番村の上にあり。世に佐太といふ。この近村、一番より十番までの村名あり。一説に大坂金城要害の軍勢隊伍を立つる名なりとぞ。下島より水上およそ三十五丁ばかり。

■佐太天満宮
 一番村にあり。この地の産土神なり。
 本社祭神菅大臣(御神体木造、長二尺ばかり、御自作と云ふ。例祭六月十五日、九月二十日。本社額、佐多天満大自在天神。二品親王良尚御筆なり。)
 好文天神祠(本社の傍にあり)白大夫祠(好文祠の傍にあり)末社(稲荷・愛宕を祭る。手水鉢・井筒等は淀屋衛門太郎寄附なり。一の鳥居の額は、曼殊院良恕親王御筆)勅梅(社前にあり。後水尾帝より二枝の梅を賜ふにより、当社の神木に接ぎ木する所なり。また御製の和歌を賜はる。)
 家の風 世々に伝へて 神垣や たへたるをつぐ 梅も匂はむ 後水尾院御製

 竹内御門主良尚親王御副書に曰く
 河州佐太宮は菅神の廟なり。しかれども、近代、社あれはてて祭奠の儀式も難かりしを、永井信州の太守尚政朝臣再興せしにより、壮麗目を奪ひ、見る者は尊み、聴くものはのぞむ。その頃太上天皇百和香(ひゃくかこう)に梅の折枝をそへて尚政朝臣にたまはりしを、神の庭につぎて端籬(みづがき)のうゑ物とす。これによつて右の御製を尚政朝臣にくだしたまふ。すなはちこれを納め内陣の宝物となしぬ。何の栄かこれにかへん。されば神の徳いよいよたかく、かれがまこといよいよあらはるるものか。彼の御製の由来をかきつくべきよし、所望によりて止むる事をえず、いささかしるしつくるものならし。
 慶安元年大呂念五
  北野寺務二品親王良尚書之

 そもそも当社の勧請は、年歴久遠にして、その濫觴(らんじょう)さだかならず。やうやく永徳年中の社記を存す。そののち荒蕪して社頭も神さび端籬もなだらかなりしを、慶安元年当境の守屏城州淀の城主永井信濃守尚政侯、菅神を尊崇して再び社壇を新たに営みたまふ。それより神威いちじるしくして社頭冷瓏(れいりょう)たり。
 その頃、太上天皇(後水尾帝)名香に二枝の梅を副へて御寄付ある。時に卯月の末つかたなりしに、社前の梅に二木の枝を接ぎしが、勅(みことのり)のおもきにや神徳の尊きにや、奇異なるかな二枝とも婉然として栄え、時ならぬ花咲き実を結びけり。
 大君の御恵に、御製の御威徳にて神も梅もこころありしやと四方の人々これを拝して、感涙肝に銘じ社頭に群をなせり。もとより、この地は都往返の官道なれば旅客常に詣し、前は淀河の流れにして、上下の船昼夜ともに往きあひて、船中より鳥居の整々たるを見るより、遥拝して行き過ぐるも多かりき。守口よりこの所まで陸路の行程一里なり。

■菅相寺
 佐太宮の後にあり。天満宮奥院と号す。禅宗曹洞派。正保元年建立。
 本尊十一面観世音(行基作、長三尺)薬師仏(運慶の作)秋葉祠(本堂の傍にあり)連歌所(同上)永井尚庸(なほつね)侯碑(寺前にあり。儒官鶴山野節撰)

■紫雲山来迎寺
 右同所に隣る。大念仏宗鎮西派。
 本尊天筆阿弥陀仏(脇壇の左、座像阿弥陀仏、右は開山誠阿上人の像。この僧は村上帝の帰依なり。)
 観音堂(十一面尊を安置す)鎮守祠(八幡大神・星江相模大明神・稲荷等を祭る)


 「浪花百景」には「佐太村天満宮」がありますので、ご紹介します。

■佐太村天満宮(芳雪画)
 佐太村天満宮は現在の守口市の北部寝屋川市との境界付近にあり、当時往来の頻繁な京街道の通る淀川左岸に近接して建ち、三十石船や過書船、堤上の街道を行く人からも岸の間近に鳥居が望めました。
 佐太村を領地とした菅原道真が太宰府配流の時に立ち寄ったとされる故地で、天暦年間(947~957)、菅公を慕った里人たちが祠を建てたのが創始と伝わります。江戸初期に復興され、山城淀城主であった永井尚政をはじめ大名の崇敬あつく、街道や川からの参拝に都合がよく、往来の人々の参詣が絶えませんでした。
 現在は護岸によって遮られていますが、淀川を行く船人も手を休めて遠くに鳥居を望み柏手を打ったといわれます。

浪花百景「佐太村天満宮(芳雪画)」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)

 「よと川の図」の佐太村付近を見てみましょう。
 佐太天満宮が非常に大きく描かれています。淀川を往来する船からも望むことのできる名所であったことがよくわかります。天満宮に隣接して来迎寺も描かれています。

「よと川の図」の佐太村付近(大阪くらしの今昔館蔵)

 次に、地形図で佐太村天満宮周辺の様子をみてみましょう。明治41年陸地測量部地図を見ると、淀川の左岸(南岸)を京街道が通り、図の中央辺りで街道から東へ延びる参道があり、その先に「佐太天神社」があります。南隣に「来迎寺」の文字も見えます。「大庭一番」「大庭二番」「仁和寺」「金田」などの集落以外は水田が拡がっています。

明治42年陸地測量部地図(今昔マップ3より)

 国土地理院地図に「明治時代の低湿地」という図があり、明治20年ころの河川や池、水田などの様子がわかります。このあたりは淀川の川筋はほとんど変わっていません。図の中央「+印」が佐太天満宮の位置です。鳥飼大橋と仁和寺大橋のほぼ中間にあって、国道1号線沿いではありますが、鉄道からは離れていて、現在では便利とは言えない場所にあります。しかし、江戸時代、鉄道のなかった時代には、淀川の水運と、京街道沿いという恵まれた立地にありました。


国土地理院地図(明治時代の低湿地)


 今昔マップ3を利用して、明治41年以降の佐太村天満宮周辺の変遷を見てみます。
 左上の明治41年、右上の昭和4年では、いくつかの集落以外はほとんどが水田でした。昭和4年には何本かの道路が整備されています。ほかには送電線が何本か通っているのが目に付く程度です。

明治41年から最近の地形図
(今昔マップ3より)

 左下の昭和42年を見ると、鳥飼大橋が架橋され、佐田村の南に国道1号線が整備されています。集落以外にも市街地が拡がってきています。
 右下は最新の地理院地図ですが、淀川左岸の堤防に沿って国道のバイパスが通り、阪神高速道路守口線とつながっています。仁和寺大橋も架けられています。ほぼ全域が市街地となっています。


 江戸時代天保年間発行の「浪華名所獨案内」、文化3年(1806)発行の「増修改正摂州大阪地図」、天保8年(1837)発行の「天保新改攝州大坂全圖」、大正13年(1924)発行の「大阪市パノラマ地図」、昭和12年(1937)発行の「大大阪観光地図」では、佐太村天満宮付近は地図の範囲に入っていません。



 現在の佐太村天満宮付近の状況を写真で見てみましょう。淀川の堤防から天満宮への参道は国道によって分断されています。国道脇から拝殿に向かって真っすぐに参道があります。境内には、天満宮の本殿・拝殿のほか、戎神社、稲荷社、愛宕社などの境内者、史跡などが多くあります。

佐太天満宮への参道と二の鳥居
拝殿
本殿(一間社春日造)
佐太戎神社
筆塚
蕪村の句碑
「窓の灯の 佐太は未だ寝ぬ 時雨かな 蕪村」
偲び草
「この碑文は蕪村が丹波から故郷毛馬に帰る途次時雨降る淀川の夜舟から見た佐太村の情景で自然を静観し人間的な暖かさを謳う俳聖蕪村翁の文人画家としての面目躍如たるものがある。われら有志は由緒深きここに碑を建て衆とともに永く翁を偲ぶ機縁としたい。」
国道脇の天満宮参道への入口
佐太天満宮 一丁半
後ろを振り返ると鳥居の向こうに淀川の堤防
石井筒
豪商淀屋寄進の石井筒
大阪みどりの百選のひとつ
佐太天満宮南側の神門

 佐太天満宮の神門を出ると、右手に来迎寺があります。もとは大念仏宗佐太派の総本山で、本堂は鉄筋コンクリート造に建て替えられていますが、客殿、庫裏などに往時の景観が残っています。

神門を出ると右手に来迎寺
来迎寺表門
来迎寺の庫裏と客殿
来迎寺の松
来迎寺と佐太天満宮神門
来迎寺(左)と佐太天満宮神門(奥)


 今回は、「淀川両岸一覧」の「佐太天満宮」をご紹介しました。


〇企画展「大阪くらしの今昔館所蔵品展『歳時記と祝い事』」も残りわずかとなりました。9月6日(日)までの開催です。

 大阪くらしの今昔館ではこれまで、住宅や建築に関する歴史資料、祭礼や年中行事に関する絵画資料など、大阪の伝統的な建築文化および歴史文化を伝える資料の収集に努めてきました。本展ではこれまでに収集した館蔵品の中から「歳時記」と「祝い事」に関連する絵画資料、染織資料、工芸品、節句飾りなどを展示します。

 季節にあわせて飾られた掛軸や屏風、節句飾りや年中行事に用いられた漆器、贈答用の袱紗、通過儀礼の際に身に纏った宮参りや婚礼の衣装など「ハレの日」を彩った100点余りを選びました。 五節句や年中行事、人の一生の節目にあたる儀礼など、大阪の人々が大切に守ってきた生活文化に触れていただきます。

住吉をどり 菅楯彦
浪花行事十二月 七夕月
二代長谷川貞信
花嫁衣裳 扇面四季花鳥模様振袖
花嫁衣裳 揚羽蝶円紋金襴菱木打掛
雛飾り台所道具


〇大阪くらしの今昔館は6月3日(水)から再開しています

 再開にあたっては、十分な予防対策に努めてまいります。これに伴い、ご来館のみなさまにも、体温検査やマスクの着用などの入館並びに観覧時にご協力いただくことがございます。たいへんご不便をおかけしますが、ご理解・ご協力のほど、お願い申し上げます。なお、詳しくは、こちらをご確認ください。

 今昔館では、当面の間、以下の催し物の開催を中止しています。
・町家ツアー(ボランティア等による展示解説)
・着物体験
・上方芸能・文化体験(町家寄席、お茶会など)
・町家衆による各種ワークショップ
・ギャラリートーク、講演会



〇【動画】重文茶室「蓑庵」ー構造模型で見る茶室建築の世界
 重要文化財 大徳寺玉林院茶室「蓑庵(さあん)」の実物大構造模型(竹中大工道具館所蔵)を京都工芸繊維大学名誉教授 日向進先生が分かりやすく解説してくださいます。
 こちらからご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=tqJEnPZckbc&feature=youtu.be



〇大阪くらしの今昔館の紹介動画
 今昔館の江戸時代のフロアをご紹介する動画は4編あります。全4編の目次はこちらからどうぞ。
 こちらから、見たい部分だけを見ることができます。英語の字幕入りの動画を見ることもできます。
http://konjyakukan.com/link_pdf/what's%20this%20.pdf


 このほかに「天神祭となにわの町」をご紹介する動画があります。
https://www.youtube.com/watch?v=3or8fq4U8zE&feature=youtu.be


 また、今昔館の近代のフロアをご紹介する動画が2編あります。
https://www.youtube.com/watch?v=SbqzmybwKss&feature=youtu.be

https://www.youtube.com/watch?v=EohP-xqrOi4


〇「今昔館のオンライン まなびプログラム」が公開されています
 大阪のまちと住まいや くらしのことを おうちで学んでみませんか?
 こちらからどうぞ。
 ⇒konjyakukan.com/link_pdf/今昔館のオンラインまなびプログラム.pdf



 大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからご覧ください。
http://konjyakukan.com/index.html


 「今週の今昔館」の第1回から第52回までは、「古地図で愉しむ大阪まち物語」に掲載しています。
 「今週の今昔館」の第1回はこちらからご覧ください。
http://osakakochizu.blogspot.com/2016/08/blog-post_5.html


 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。

「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。
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初めての方はこちらからどうぞ。
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2020年8月20日木曜日

今週の今昔館(229) 守口驛、新川 20200820

〇淀川両岸一覧にみる江戸時代の大坂(9)

 琵琶湖から大阪湾へと流れる淀川は、人の流れ、物の流れを担う交通の大動脈として機能してきただけでなく、人々の暮らしと大きく関わり、政治・経済・文化にも大きな影響を与えてきました。

 文久元年(1861)に刊行された船旅の案内書「淀川両岸一覧」は、大坂から京都までの淀川沿いの名所旧跡を挿絵を添えて紹介しています。このシリーズでは、淀川両岸一覧(上り船之部)に沿って、約160年前の江戸時代の大坂から京都までの淀川南岸(左岸:川の流れから見て左側です)沿いの風景を訪ねていきます。今回は「守口驛、新川」をご紹介します。驛とは鉄道の駅ではなく宿場町のことです。

■守口驛、新川
 赤川から対岸の柴島へ渡した三十石船は、ここから右岸を江口まで3度目の曳き船をします。「守口駅、新川」の絵は、この途中の船内からの眺めで、淀川右岸沿いから見た対岸の左岸守口あたりの風景を描いています。この川筋には猿島と称する中洲があり、この中洲と右岸との間を流れる新川筋を右岸側から引き上げるわけです。絵の左下に「新川」の文字が見えます。

 守口は、江戸時代、大坂から京へと向かう街道筋最初の宿駅で、江戸品川から始まる東海道の最終駅とも言え、街道の宿場として栄えました。本文の解説には次のように記されています。

 ≪浪華より京師に上る陸路の官道第一の駅なり。高麗橋より此の地に至る行程二里。歴るところ、片町、野田町、野江、内代、関目、森小路、今市、土居等なり。是を本街道あるいは東街道といふ。≫

 ここにある「東街道」とは東海道のこと。五十三次として知られる東海道ですが、当時の京坂では、守口、枚方、淀、伏見を含む五十七次として認知されていました。大坂の高麗橋を起点に京へ上る際には、守口が最初の宿場だったのです。

淀川両岸一覧上船之巻「守口 新川」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)

 宿場には名物がつきもの。守口もその例にもれず、「守口漬」という名物が旅人の舌を楽しませていました。長大根の糟漬けで、挿絵の中洲で植えられているのがその大根で、かつては天満天神の前でつくられたことから、宮前大根とも呼ばれていました。その形は葱のように細長く、成長すると1m以上にもなる砂地性の特殊な大根です。本文は次のように記しています。

 ≪長菜菔(だいこん)の糟漬は当所の名物にして世に守口醃(づけ)と号す。風味殊更に美なり。因みに云う、この長菜菔は生なる時は宮前菜菔と号し、往昔(いにしへ)は摂州天満天神の宮前いまだ田圃なりし時、作出せしを以て宮前の号あり。然るに浪花繁栄に随ひ、漸に土地ひらけて、今は宮前はいふも更なり、宮後も数十町人家となり、此の大根も当時は長柄の辺にて作るよし。然れども尚旧名を用ひて宮前菜菔と称す。尓有(さる)を此守口に求めて糟蔵(かすづけ)にし、守口漬といふ。≫

 守口漬とは酒粕に漬けこんだ大根の漬物です。守口本陣を預かる吉田八郎兵衛が献上し、豊臣秀吉も賞味したとか。その際、「守口漬」と名付けたともいわれています。残念ながら現在では守口大根の奈良漬けとして名古屋の名物となっています。

 しかし、「摂州奇観」によると、守口漬は「浪花にては賞せず、関より東に賞す」と記されるように、地元守口ではすたれ、岐阜の長良川畔で栽培され継承されています。

 絵には、帆を張った荷船が二艘。
 手前に流れるのは「新川」、中洲を挟んだ淀川の支流です。その中洲には畑仕事をする夫婦の姿がみえます。長大根は砂地で育てるのに適しています。この付近でも宮前大根を作っていたのでしょう。

 挿絵の上部の賛は、以下のとおりです。

 船はあれど よどの堤に なくむしの 声に曳かれて かちやゆかまし 対州、勝任

 曳き登る 秋の夜ぶねの 苫をあらみ ひまより露も 守口わたり 百尺

 本文には、淀川左岸を下流から上流へ向かって地名や特徴が記述されています。守口駅の前後は以下のとおりです。「土人」は地元の人々の意味です。「これより岸をはなれ内に入る」は、京街道が守口宿から先は川から離れて内陸に入ることを言っています。一部すでに引用していますが、全文を再掲しておきます。

■猿島
 土居・守口の間、前にある島をいふ。土人、中の島といふ。
■守口駅
 土居村の上にあり。これより岸をはなれ内に入る。
 浪華より京師に上る陸路の官道第一の駅なり。高麗橋より此の地に至る行程二里。歴るところ、片町、野田町、野江、内代、関目、森小路、今市、土居等なり。是を本街道あるいは東街道といふ。
 さるほどに、伝舎(はたごや)軒をならべ、飯盛の女昼の支度をすすめ、夜の泊を引く。問屋場に人馬の掛引しげく、馬夫(まご)・雲助の声高に罵るなど、駅路(うまやぢ)の風(ならひ)にして、ひとへに地方(ところ)繁昌といふべし。
 さてまた長菜菔(だいこん)の糟漬は当所の名物にして世に守口醃(づけ)と号す。風味殊更に美なり。因みに云う、この長菜菔は生なる時は宮前菜菔と号し、往昔(いにしへ)は摂州天満天神の宮前いまだ田圃なりし時、作出せしを以て宮前の号あり。然るに浪花繁栄に随ひ、漸に土地ひらけて、今は宮前はいふも更なり、宮後も数十町人家となり、此の大根も当時は長柄の辺にて作るよし。然れども尚旧名を用ひて宮前菜菔と称す。尓有(さる)を此守口に求めて糟蔵(かすづけ)に製し、守口漬といふ。
■南十番
 守口の上にあり。陸路の街道は当村の傍を往来す。当村は川岸より内にあり。


 「浪花百景」にも、「浪華の賑ひ」にも、「守口」はありません。

 そこで、大阪くらしの今昔館が所蔵する「よと川の図」で守口付近を見てみましょう。

 森小路、今市、土居を経由してきた京街道は、図では途中が一部省略されていますが、守口宿に至ります。宿場町の町並みの様子が描かれていて、道路の曲がり具合などが正確に描かれています。宿場の東の端に「一里塚」があります。「八番」で淀川に出るまでは、京街道は内陸部を通っています。
 対岸には、輪道(和道)、一津屋、江口、平田などの地名が見えます。平田の右上に三十石船が2艘、こちらは下り船でしょうか。また、一津屋の左手には、陸地から曳き上げられている三十石船が描かれています。


よと川の図の守口付近(大阪くらしの今昔館蔵)

 守口付近の地域の変遷を地形図で確認してみましょう。
 明治41年陸地測量部地図には竣工間近の新淀川の姿と旧淀川の流れの両方が描かれています。この図では国土地理院が公開している「明治期の低湿地」の図と重ねています。明治20年ごろの川や池、水田、湿地などが表示されています。濃い水色の部分が水面で改修工事前の淀川を表しています。黄色は水田、黄緑は荒地です。
 淀川の左岸を京街道が通っています。街道の両側に家屋が並び黒い帯のように見えるところが守口宿です。守口宿は新淀川からは700mほど離れていますが、付け替え前の淀川の堤の上に築かれています。豊臣秀吉が築いた文禄堤です。
 薄い水色は旧河道を示していますので、文禄堤が完成する以前は、淀川が現在よりも南の方を流れていたことがわかります。
 京街道に沿って、下流側から順に、今市、土居、守口、南十番、八番が並び、守口から八番までは、京街道は淀川から離れて内側を通っています。
 守口宿の左手に黄緑色の島があります。地図には名前の表示はありませんが、淀川両岸一覧の本文に記載のある猿島です。三十石船は、猿島と右岸の間の新川を右岸から曳き上げられていたと記載がありましたので、島の左側を航行していたことになります。新川と呼ばれていますから、島の右側の方が元の本流だったと考えられます。宿場にも近い位置にあります。


明治41年陸地測量部地図に明治期の低湿地を重ねた地図
(今昔マップ3より)

 今昔マップ3を利用して、その後の守口付近の変遷を見てみます。
 左上の昭和4年では、旧淀川の河川跡や今市と土居の間で市街地整備が始まっています。河川跡を利用して現在の国道1号線が通っています。まだ京街道をたどることができ、守口宿も見つけることができます。
 右上の昭和22年では、今市から守口にかけての地域は戦災による被害が比較的少なく、建物が残っています。守口から京街道(北方向)と守口街道(東方向)に沿って建物が並び始めています。松下無線製造工場の工場も見えます。

昭和4年から最近の地形図
(今昔マップ3より)

 左下の昭和53年を見ると、淀川に豊里大橋が架かりました。今市から守口にかけてはほとんどが市街地化しました。国道1号線は北東方向に向かって真っすぐに伸びています。地図の右上角に中央環状線も通っています。全体が市街地化して、地図から京街道や守口宿を探すことは難しくなっています。
 右下は最近の国土地理院地図ですが、豊里大橋の下流側に菅原城北大橋が架かっています。旧河道などを活用して、阪神高速道路守口線(緑色)が通っています。東洋紡の工場跡にマンションが建っています。


 現在の守口付近の状況を写真で見てみましょう。

守口宿(文禄堤と本町橋)
京阪守口市駅前から見た本町橋
再現された高札場
町家をリフォームしたお店(文禄堤薩摩英国館)
みよし写真館
傘と提灯のお店(現存せず)
守口宿の案内板
京街道の伝い石
難宗寺の太鼓楼
難宗寺本堂(明治天皇行在所跡)
盛泉寺(内侍所奉安所跡)
一里塚跡

 今回は、「淀川両岸一覧」の「守口驛、新川」をご紹介しました。


〇大阪くらしの今昔館は6月3日(水)から開館しています

 再開にあたっては、十分な予防対策に努めてまいります。これに伴い、ご来館のみなさまにも、体温検査やマスクの着用などの入館並びに観覧時にご協力いただくことがございます。たいへんご不便をおかけしますが、ご理解・ご協力のほど、お願い申し上げます。なお、詳しくは、こちらをご確認ください。

 今昔館では、当面の間、以下の催し物の開催を中止しています。
・町家ツアー(ボランティア等による展示解説)
・着物体験
・上方芸能・文化体験(町家寄席、お茶会など)
・町家衆による各種ワークショップ
・ギャラリートーク、講演会



〇企画展「大阪くらしの今昔館所蔵品展『歳時記と祝い事』」は、9月6日(日)までです

 大阪くらしの今昔館ではこれまで、住宅や建築に関する歴史資料、祭礼や年中行事に関する絵画資料など、大阪の伝統的な建築文化および歴史文化を伝える資料の収集に努めてきました。本展ではこれまでに収集した館蔵品の中から「歳時記」と「祝い事」に関連する絵画資料、染織資料、工芸品、節句飾りなどを展示します。

 季節にあわせて飾られた掛軸や屏風、節句飾りや年中行事に用いられた漆器、贈答用の袱紗、通過儀礼の際に身に纏った宮参りや婚礼の衣装など「ハレの日」を彩った100点余りを選びました。 五節句や年中行事、人の一生の節目にあたる儀礼など、大阪の人々が大切に守ってきた生活文化に触れていただきます。

住吉をどり 菅楯彦
浪花行事十二月 七夕月
二代長谷川貞信
花嫁衣裳 扇面四季花鳥模様振袖
花嫁衣裳 揚羽蝶円紋金襴菱木打掛
雛飾り台所道具


〇【動画】夏の住まいとくらし
 こちらからご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=ykiHRiba4Fk&feature=youtu.be


〇【動画】重文茶室「蓑庵」ー構造模型で見る茶室建築の世界
 重要文化財 大徳寺玉林院茶室「蓑庵」の実物大構造模型(竹中大工道具館所蔵)を京都工芸繊維大学名誉教授 日向進先生が分かりやすく解説してくださいます。
 こちらからご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=tqJEnPZckbc&feature=youtu.be



〇大阪くらしの今昔館の紹介動画
 今昔館の江戸時代のフロアをご紹介する動画は4編あります。全4編の目次はこちらからどうぞ。
 こちらから、見たい部分だけを見ることができます。英語の字幕入りの動画を見ることもできます。
http://konjyakukan.com/link_pdf/what's%20this%20.pdf


 このほかに「天神祭となにわの町」をご紹介する動画があります。
https://www.youtube.com/watch?v=3or8fq4U8zE&feature=youtu.be


 また、今昔館の近代のフロアをご紹介する動画が2編あります。
https://www.youtube.com/watch?v=SbqzmybwKss&feature=youtu.be

https://www.youtube.com/watch?v=EohP-xqrOi4


〇「今昔館のオンライン まなびプログラム」が公開されています
 大阪のまちと住まいや くらしのことを おうちで学んでみませんか?
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