2020年11月25日水曜日

今週の今昔館(242) 欣浄寺 20201125

〇淀川両岸一覧にみる江戸時代の大坂(22)

 「淀川両岸一覧」は、江戸時代の大坂から京都までの淀川沿いの名所旧跡を挿絵を添えて紹介しています。このシリーズでは、淀川両岸一覧(上り船之部)に沿って、大坂から京都までの淀川左岸(川の流れから見て左側)沿いの風景を訪ねていきます。今回は「欣浄寺」をご紹介します。八軒家から伏見までの船旅が終わり、今回からは伏見街道を徒歩で京へ向かいます。

■欣浄寺(ごんじょうじ)
 伏見京橋で一泊し、ここから伏見街道を徒歩で北上して行きます。伏見周辺は宿場を控えるだけあって遊廓が多く、宿をたち半時間ほど行くと、撞木町(しゅもくちょう)と呼ばれる傾城町に出ます。ここは赤穂浪士大石内蔵助が遊興にかこつけて同志と密議を凝らしたところとして有名で、京の島原に比べると鄙びた格式ばらない遊廓だったようです。化粧をした遊女に袖を取られて呼び止められながら、どうにかやり過ごすと、街道筋右手(東側)に見えてくるのが挿絵に描かれた欣浄寺です。

 この寺は挿絵に「欣浄寺 俗に深草寺ともいふ」とあるとおり、別名深草寺と称し、寺伝によれば、深草少将の邸宅址と伝えられ、そのゆかりの史跡が数多く残っています。有名な小野小町のもとへ百夜通ったといわれる小路や、少将・小町の塔、墨染井などが寺の後に広がり、「都名所図会」などを見ると、一庭園を形作っています。百夜通いの伝承に惹かれた旅人が二人、寺門をくぐる姿が挿絵に見えます。

 絵は欣浄寺の山門を北西の方角から眺めた風景です。左右に走るのが伏見街道で、右へ行くと伏見、左へ行くと京の町。絵の中央手前には、菅笠に杖を持つふたりの旅人がみえます。「ここが世に名高い百夜通いの寺かいな」と、奥の山門へと向かうようす。街道を行く旅人にとって、興味を引く名所であったことがわかります。また、街道の右手から北へと向かう旅の侍。ロマンティックな伝説も、彼にとっては無用の長物とみえ、目もくらずに先を進んでいきます。

淀川両岸一覧上船之巻「欣浄寺」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)
都名所図会「深草 欣浄寺」
(国際日本文化研究センターデータベース)

 江戸時代、深草の里の名物として、次のようなものがあったことが、本文に記されています。

 土器(かはらけ)、風炉(ふろ)その外土細工の人形、器物また蕃椒(とうがらし)の粉、団(うちは)等

 これらはみな、「すこぶる世に名高」かったと本文にあります。松尾芭蕉の「蕉門十哲」のひとり向井去来に、このうちの団扇を詠じた狂歌が残されています。

 深草の 少将団(うちは) 安ければ 京の小町に 買ひはやらかす

 江戸時代、ここの団扇は深草団扇と呼ばれ、求めやすい値で人気を博しました。その深草団扇と、深草の少将と小野小町にまつわる悲恋物語を、掛詞に仕立てているのが、この歌のみどころです。(深草団扇は安価なので、深草少将のように小野小町にプレゼントする物ではなくて、京の小町娘のために買うて、流行らせる。)

 能楽「通小町(かよいこまち)」に、小野小町に懸想した深草の少将が百夜(ももよ)通いを試みるも九十九夜目に亡くなってしまうというエピソードがあります。その深草の少将が住んでいたとされている場所に、欣浄寺はあります。

 現在、清涼山欣浄寺は曹洞宗の寺院です。ただし、「淀川両岸一覧」の本文には「浄土宗」と記されています。もとは真言宗であったのを曹洞宗に改め、さらに、真言宗、曹洞宗と改宗を重ねた経緯があるからです」。

 また、「都名所図会」は次のように紹介しています。

≪墨染の南にあり。浄土宗にして、本尊には阿弥陀仏を安置す。(中略)此地いにしへ深草少将の第宅(ていたく)なり。寺記に曰く、四位少将は深草大納言義平卿の長子にして、少将義宣卿と号す、弘仁三年三月十六日此所において卒し給ひぬとかけり。≫

 そもそも深草の少将は架空の人物です。モデルだといわれる人物には諸説あり、ここでは「深草大納言義平卿」の子「義宣卿」であるとしています。

 ところで、本文は「続千載和歌集」の次の和歌を取り上げています。

 深草や 竹の下道 分け過ぎて ふしみにかかる 雪の明けぼの 前関白太政大臣

 これは深草の少将が九十九夜目に降った大雪で亡くなったことを詠じています。
 これに対して、絵の左上、賛の発句はつぎのとおり。

 解けて行く 雫せはしや 雪の笹 醒花

 欣浄寺の傍にある撞木町は大石内蔵助が山科から通った揚屋「笹屋」のあるところ。時代が変われば、雪も解けて雫となるのです。



 本文は次のとおりです。一部重複するところがありますが、全文を掲載しておきます。
■深草里(ふかくさのさと)
 ひがしは谷口山を限り、西は竹田の里、南は墨染、北は稲荷を限る。これ一箇の勝地にして、いにしへより高貴の山荘・寺院の大厦(たいか)多し。ことに鵜(うづら)の名所にして、古人の秀詠多し。また、この里の名産は、土器(かはらけ)、風炉(ふろ)その外土細工の人形、器物また蕃椒(とうがらし)の粉、団(うちは)等はすこぶる世に名高し。

狂歌
 人形の 西行いかに 花見んと 群れつつ通る ふしみ街道 天地根
 わらんべに 思ひつかそと 見せつきや 伏見の里の お山人形 春女
 深草や 少将団(うちは) やすければ 京の小町に 買ひはやらかす 去来

■欣浄寺(ごんじょうじ)
 街道の東側にあり。浄土宗。
 本尊阿弥陀仏、立像にして聖徳太子十六歳の御作。
 深草少将塚・小野小町塚、ともに堂の後、池の東にあり。
 少将通道(かよひみち)、池の東、藪のあひだにあり。
 道元禅師の石像、少将塚の北にあり。道元禅師入宋の後この所に初めて禅寺を営みたまふ、ゆゑに旧(もと)は禅宗の寺院なり。
 七瀬川局墳(つか)、石像の北にあり。墨染井、池の汀にあり。竹の下道、かよひ道のほとりをいふ。

 「続千」
 深草や 竹の下道 分け過ぎて ふしみにかかる 雪の明けぼの 前関白太政大臣

■撞木町(しゅもくまち)
 本名えびす町。秀吉公伏見御在城のとき、渡辺掃部・前原八左衛門といふものに慶長九年十二月傾城町を免許ありし所なりとぞ。元禄のころ、大石内蔵助この廓に遊びし時、ささやといへる楽戸(あげや)の天井板に落書せしこと世の口碑(こうひ)にのこれり。しかるにその家も没落におよび、天井板は東武の人に売りたるよし聞こゆ。
 菜の花や裏から這入る撞木町 何狂
 鶏頭や垣のあちらは撞木まち 可風



 前回までで大坂から伏見への船旅が終わり、今回からは徒歩で京へ向かいます。前回ご紹介しました「蓬莱橋」の本文に、「伏見で上陸した旅人は京に到るのに、それぞれいろいろな道を選んで歩きましたが、およそこの蓬莱橋の筋を北へ下板橋通に至り、ここは行きどまりなので、右に曲がって墨染・深草を経て京に入る道を通りました。これを本街道、あるいは伏見街道・稲荷街道という。」とありました。また、阿波橋のところには、「橋すぢの東は京街道に通じる」とありました。これらのコースを地形図でたどってみることにしましょう。
 1枚目は今昔マップを利用して、左側に明治42年の地形図に明治期の低湿地(明治20年ころの水面(水色)・水田(黄色)・湿地(紫)・荒地(緑)を表す)を重ねたもの、右側は最新の地理院地図に色別標高図を重ねたものです。
 図中のAは京橋、Bは蓬莱橋、Cは下板橋、Dは阿波橋です。
 Dの阿波橋の東詰から東へ進むと図のEに出ます。ここは「四辻の四つ当たり」という場所で、東西南北どちらから来ても行き止まりになっている辻です。秀吉時代の町割りで町の防衛上から考えられたといわれます(2枚目の地図参照)。ここからさらに東へ進むとFに至ります。この角を北へ進むと京街道(本街道・伏見街道・稲荷街道)です。
 Bの蓬莱橋から北へ進み、突き当りの下板橋通を東へ進むとGに至ります。京への街道は、ここから北へ、H、I、Jと進んでいきます。

今昔マップより伏見深草付近
四辻の四つ当たり(地理院地図に加筆)

 3枚目は明治22年陸地測量部地図です。街道の様子がわかりやすいので、少し拡大して示します。図のA~Fが京街道になります。欣浄寺は図のG付近になります。

明治22年陸地測量部地図(仮製地図)
国際日本文化研究センター蔵

 4枚目は、今昔マップを利用して墨染付近を拡大しました。左は明治42年陸地測量部地図に治水地形分類図を重ねたもの。右は地理院地図に色別標高図を重ねたものです。右の地図の中央辺りに寺院の記号が2つ並んでいますが、上が墨染寺、下が欣浄寺です。左の地図では欣浄寺は表示されていません。

今昔マップより墨染付近

 5枚目は地理院地図に自分で作る色別標高図を重ねたものです。標高20mから5m刻みで色を変えてみました。JR奈良線は山裾を走り、京街道は水色の標高25~30mの辺りを通っています。図の上部中央に寺院の記号が2つ見えますが、下の方が欣浄寺です。

地理院地図+自分で作る色別標高図

 最後は、マピオン地図の深草墨染付近です。図の右上「西桝屋町」の文字の右下に「欣浄寺」があります。本堂の東側には池が描かれています。また、地図の左下には「撞木町」の地名が今も残っています。

マピオン地図の深草墨染付近


 今回は、「淀川両岸一覧」の「欣浄寺」をご紹介しました。次回からは引き続き徒歩で京街道を京へと向かいます。


〇シンポジウム「美しい日本の暮らし・秋」の開催
 文化庁から委託を受け、公益財団法人山本能楽堂が企画・運営し、大阪市立住まいのミュージアムが共催で実施する「二十四節気七十二候~暮らしをいろどる生活絵巻~日本人ってすごい!」の一環としておこなうものです。

◇基調講演
 「生活を楽しむ日本人の暮らし・秋」大阪くらしの今昔館 館長 谷 直樹氏
◇事例報告
 「茶の湯の季節感」森 雅子氏 大徳寺玉林院
 「和装がふだん着だった頃」深田 智恵子氏 大阪くらしの今昔館
◇まとめ
 「美しい都市のくらしと創造性」
 佐々木 雅幸氏(文化庁文化創造アナリスト 大阪市立大学名誉教授)

日 時:令和2年11月29日(日)10:30~12:30
会 場:大阪市立住まい情報センター3階ホール 大阪市北区天神橋6丁目4-20
参加費:無料
定 員:150名(先着順)

詳しくはこちらからどうぞ。
http://konjyakukan.com/topic.html#2020/11/12


〇落語家 桂米團治と歩く江戸時代の大坂
 大阪くらしの今昔館の9階常設展示室にある江戸時代(天保年間)の大坂の町並みをご紹介する新しい動画ができました。案内人は上方の落語家、桂米團治師匠です。
〈①表通り編〉
 こちらからどうぞ。
https://www.youtube.com/watch?v=n1moBJy5uB4
〈②町家の暮らし編〉
こちらからどうぞ。
 https://www.youtube.com/watch?v=dDb2VBmyKnw



〇企画展「景聴園×今昔館 描きひらく上方文化」は、終了しました。

 「景聴園(けいちょうえん)」は京都で日本画を学んだグループです。80〜90年代生まれの関西出身の作家5名と企画を担当する2名が所属し、2012年に結成されました。同世代でありながらも異なる制作スタイルを持つ作家たちを中心に、日本画を通して文化と歴史を再考することで絵画のあり方を見つめ、日夜議論を重ねながら制作と発表を続けてきました。第6回目を迎える今回の展示は、大阪での初開催となります。
 大阪くらしの今昔館は、大阪における住まいの歴史を紹介する一環として、江戸時代を中心に近代までの美術・歴史資料を所蔵しています。それらは床の間や座敷で掛軸や屏風として、生活の中を彩るものとして、生活に取り入れられてきました。時代の流れとともに住まいは郊外にうつり、座敷を持たない家も増え、生活の中で日本画に親しむ機会も少なくなってしまいました。しかし現在も、連綿と続いてきた日本画の歴史を継承して学び、絵を描くことについて問いかけながら制作活動をつづける人たちがいます。
 景聴園の作家たちは当館で展示をするにあたり、所蔵品の熟覧を重ねることで大阪の歴史と文化から着想を得て、それぞれのテーマを設けました。本展では、5者5様のアプローチによって描き出された景聴園の新作を中心に今昔館の所蔵品も交えながら、上方で発展してきた都市文化が持つ奥深い世界を展開します。

こちらから企画展の紹介動画をご覧いただけます。
https://www.youtube.com/watch?v=JfeeQ8ShSgo&feature=youtu.be



〇次回の企画展は「くらしと漆工」
令和2年12月19日(土)〜令和3年2月14日(日)
 古来より漆は日本人のくらしや文化と密接に結び付いてきました。実用性と美観に優れる漆は、日用品としての食器類をはじめ、ハレの日の装身具や調度、建築装飾に至るまで幅広く用いられており、今日に至るまで日本の伝統文化を支え続けています。2001年の開館以来、大阪くらしの今昔館には「住まいの歴史と文化」に関する資料の一分野として、形も用途も様々な漆工品が集められました。本展では、それらのコレクションの中から魅力あふれる作品を選りすぐり、漆商いの中心地であった大坂所縁の作品とともに展観します。今昔館では初となる漆工をテーマにした展示を通し、長い歴史と共に育まれてきたその魅力に迫ります。



〇大阪くらしの今昔館は感染予防に注意して再開しています

 ご来館のみなさまにも、体温検査やマスクの着用などのご協力いただくことがございます。たいへんご不便をおかけしますが、ご理解・ご協力のほど、お願い申し上げます。なお、詳しくは、こちらをご確認ください。

 今昔館では、当面の間、以下の催し物の開催を中止しています。
・着物体験
・上方芸能・文化体験(町家寄席、お茶会など)
・町家衆による各種ワークショップ


〇大阪くらしの今昔館の紹介動画
 今昔館の江戸時代のフロアをご紹介する動画は4編あります。全4編の目次はこちらからどうぞ。
 こちらから、見たい部分だけを見ることができます。英語の字幕入りの動画を見ることもできます。
http://konjyakukan.com/link_pdf/what's%20this%20.pdf


 このほかに「天神祭となにわの町」をご紹介する動画があります。
https://www.youtube.com/watch?v=3or8fq4U8zE&feature=youtu.be


 また、今昔館の近代のフロアをご紹介する動画が2編あります。
https://www.youtube.com/watch?v=SbqzmybwKss&feature=youtu.be

https://www.youtube.com/watch?v=EohP-xqrOi4



〇【動画】重文茶室「蓑庵」ー構造模型で見る茶室建築の世界
 重要文化財 大徳寺玉林院茶室「蓑庵(さあん)」の実物大構造模型(竹中大工道具館所蔵)を京都工芸繊維大学名誉教授 日向進先生が分かりやすく解説してくださいます。
 こちらからご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=tqJEnPZckbc&feature=youtu.be



〇「今昔館のオンライン まなびプログラム」が公開されています
 大阪のまちと住まいや くらしのことを おうちで学んでみませんか?
 こちらからどうぞ。
 ⇒konjyakukan.com/link_pdf/今昔館のオンラインまなびプログラム.pdf



 大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからご覧ください。
http://konjyakukan.com/index.html


 「今週の今昔館」の第1回から第52回までは、「古地図で愉しむ大阪まち物語」に掲載しています。
 「今週の今昔館」の第1回はこちらからご覧ください。
http://osakakochizu.blogspot.com/2016/08/blog-post_5.html


 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。

「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。
http://www.sumai-machi-net.com/
初めての方はこちらからどうぞ。
http://www.sumai-machi-net.com/howtouse


2020年11月18日水曜日

今週の今昔館(241) 伏見 京橋 20201118

〇淀川両岸一覧にみる江戸時代の大坂(21)

 琵琶湖から大阪湾へと流れる淀川は、人の流れ、物の流れを担う交通の大動脈として機能してきただけでなく、人々の暮らしと大きく関わり、政治・経済・文化にも大きな影響を与えてきました。

 「淀川両岸一覧」は、江戸時代の大坂から京都までの淀川沿いの名所旧跡を挿絵を添えて紹介しています。このシリーズでは、淀川両岸一覧(上り船之部)に沿って、大坂から京都までの淀川左岸(川の流れから見て左側)沿いの風景を訪ねていきます。今回は「伏見 京橋」をご紹介します。いよいよ三十石船の終着で、幕末の時代劇によく登場するお馴染みの場所です。

■伏見 京橋
 淀小橋より引き始めた船は、伏見の手前、三栖まで引き上がり、ここで綱を手繰り納めて、京橋の船着き場まで棹差して上がります。
 挿絵の三十石船は画面右下に描かれ、船頭等は最後のひと差しをして船を接岸するところです。早朝に八軒家を出た上り船も、終着の京橋に着く頃には日もとっぷりと暮れています。ここまで来ると、まるで重箱に詰められた饅頭のように苫の下できゅうきゅうとしていた船客も、苫の隙間から立ち上がり背伸びをしています。
 浜辺は、旅客、その出迎え、見送りの人、荷馬、商人、宿の客引き等でごったがえす中、この人いきれを抜けて旅籠行灯が連なる宿場町へ出ます。船客は旅の疲れを癒すため、伏見に着くとまず船宿で食事をし、その後、狭い船内で凝った身体を按摩してもらい、翌日からの旅に備えたものでした。

淀川両岸一覧上船之巻「伏見 京橋」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)


 江戸時代の伏見は、京都町奉行ではなく伏見奉行の支配下にありました。それで、伏見から京に通じる経路にあった橋を京橋と呼んだわけです。大坂城の北にある京街道の起点となる橋を京橋と呼ぶのと同じ理屈です。

 挿絵は京橋界隈を西側から眺めた風景で、右手、京橋の奥に見えるのは蓬莱橋です。本文の解説には京橋の北詰に高札場があったことが記されています。この絵では高札場をはっきりと確認することはできませんが、左の絵の中央寄り、橋のたもとの民家と民家のあいだに屋根の部分だけが見えているのが高札場です。
 大坂方面から上洛する旅人はこの伏見浜で下船し、その後、京を目指しました。そのため、この高札場でさまざまな情報を得たのです。

 絵の右下には、いままさに船を降りようとする人々と積み荷のようすが描かれています。手前にみえる船は旅人を乗せたまま。これは、すでに着岸している船が人や荷物を降ろし終えるのを待っているのです。下船する旅人を岸で待ちかまえるのは、京橋付近にあった宿の客引きたち。待ちきれず、水上と陸上とで交渉を始めているようすです。本文の解説には次のようにあります。

≪この橋の辺(ほと)りは浪華より京師に上り下りの通船三十石、今井船あるいは伝道の荷船等の船岸(ふなつき)にして、夜となく昼となく出入の船々間断なく、且つ都に通う高瀬船、宇治河下る柴船、かずかず挙(こぞ)って喧(かまびす)しく、京摂の往返、関東上下の旅客群衆の地なるが故に旅舎(はたごや)、貨食家(りょうりや)の多(さは)なることは言ふも更なり。≫

 おそらくは、大坂からの上り船が着くたびに、絵に描かれたような光景が繰り返されていたことでしょう。

 乗合の船は ふしみへ 着きながら
 はなればなれに 出づる旅人
 アハ 大奈紋 袖彦


 下船すれば、宿で疲れをとるもよし、先を急ぐもよし、絵には、当時の界隈の殷賑ぶりがよく伝わる狂歌が賛として紹介されています。
 また、宿のほかにもさまざまな店のあったことが本文の記述によって知られます。

≪土産物の商家(あきふど)、旅行用具の正店(をほみせ)・脚店(こみせ)、軒をつらねてこれを販(ひさ)ぐ。されば船上りの老若男女、いづれも船宿に入りて支度を調ふ。故に煙草・楊枝・紙うる嬶(かか)、菓子・饅頭を売(あきな)ふ童子、銭の両替・青物売・按摩按腹の療治人・本堂修復の勧進僧、立ちかはり入りかはり此に来つて数(しばし)すすむ。飲食すんで発足の上客(のぼりきゃく)あれば、下客(くだりきゃく)迎ひに来る船頭ありて、しばしも静ならざるは皆此所の賑はひなり。≫

 旅の必需品を中心に、煙草や甘味などなど豊富な品揃え、なかでも、旅の疲れを癒す按摩治療や、殷賑を期待して浄財を募るという点に、なるほどとうなずかれます。
 ところで、絵の左側中央に城郭風の建物が見えます。挿絵の解説には次のようにあります。

≪当橋の北詰東北の角に城塁のごとき堠楼(やぐら)あり。いにしへ伏見の城の遺風なるべし。一奇観たり。≫

 およそ、高札場の間近にあったこの建造物は、かつての伏見城の遺構だとのこと。ただし、「都名所図会」の挿絵や同時代の随筆類にこの遺構が登場することはなく、この絵によってしか確認することはできません。


 本文は次のとおりです。伏見の地名の由来や、橋、神社など、詳しく解説があります。長くなりますが全文を掲載しておきます。
■伏見
 当地より花洛(みやこ)にいたる、行程二里。「日本紀」には俯見(ふしみ)と書けり。和歌には呉竹のふし見の里と詠めり。また伏水と書くことは、宇治川の流水この所にて伏(ふく)し湛(たた)ふるのゆゑならんか。後世すべて伏見と書けり。いにしへは民村九郷なりしを、文禄三年秀吉公御在城より町小路建ち続きて、西国より東国・北国へおもむく喉口(ここう)の地となる。町数二百六十余町、舎屋六千二百余軒となり。これより京師にいたるに東街道を本とす。西の道を竹田街道といふ。いづれもその便宜に任す。

 「新古」
 夢かよふ 道さへ絶えぬ 呉竹の ふしみの里の 雪の下折(したをれ)

 「新勅」
 朝戸明けて 伏見の里を ながむれば 霞にむせぶ 宇治の河波

 この余(ほか)野・山・沢・田など故人の和歌多し。なほ名所旧蹟しばしばありといへども、事しげければこれを略し、ただ街道のかたはらなる所々をかいつみてその一、二をあらはすのみ。

■肥後橋
 伏見の入口、下三栖より西浜町にわたす。長さ十五間半、京橋に着岸の登り舟は、この川すぢにさし入るとき、第一番に見ゆる橋なり。
■三栖社御旅所
 肥後橋の東詰にあり。例祭九月十六日。生土(うぶすな)の神輿この所に渡御あり。
■住吉神社
 肥後橋の東、船大工町にあり。宝蔵院これを守護す。東浜に着岸の登り舟は、この川口に入るなり。
■今富橋
 東浜より中書島にわたす。橋の長さ十八間、幅一間六尺一寸。この橋辺船宿多くいたって賑はし。
■中書島
 今富ばしの東詰めにあり。一説に、文禄年中向島に塁を築くといふは、この中書島の地なり。慶長のはじめ伏見の城とともに滅亡せり。それより年久しく荒廃の地となりしを後世遊女町となりて、いにしへの江口・神崎に準(なぞら)へ、旅客の船をとどめて羇旅の憂さをなぐさむ。すこぶる繁昌の地なり。
■弁才天社
 中書島にあり。本尊弁才天」の像は弘法大師の作といふ。例年六月二十五日祭礼ありて、この島の賑はひ、いはんかたなし。
■京橋
 今富橋西詰の北の方の浜より北へわたす。北詰を京橋町といふ。橋の長さ二十二間。北詰に高札場あり。淀小橋よりこれまで水上およそ五十町。
 この橋の辺(ほと)りは浪華より京師に上り下りの通船三十石、今井船あるいは伝道の荷船等の船岸(ふなつき)にして、夜となく昼となく出入の船々間断なく、且つ都に通う高瀬船、宇治河下る柴船、かずかず挙(こぞ)って喧(かまびす)しく、京摂の往返、関東上下の旅客群衆の地なるが故に旅舎(はたごや)、貨食家(りょうりや)の多(さは)なることは言ふも更なり。
 土産物の商家(あきふどか)、旅行用具の正店(をほみせ)・脚店(こみせ)、軒をつらねてこれを販(ひさ)ぐ。されば船上りの老若男女、いづれも船宿に入りて支度を調ふ。故に煙草・楊枝・紙うる嬶(かか)、菓子・饅頭を売(あきな)ふ童子、銭の両替・青物売・按摩按腹の療治人・本堂修復の勧進僧、立ちかはり入りかはり此に来つて数(しばし)すすむ。飲食すんで発足の上客(のぼりきゃく)あれば、下客(くだりきゃく)迎ひに来る船頭ありて、しばしも静ならざるは皆此所の賑はひなり。
■阿波橋
 肥後橋の川すぢ上にあり、西浜といふ。ここにも船宿あまたありて、最もにぎはし。橋すぢの東は京街道に通じ、西は横大路に出づる道すぢなり。
■蓬莱橋
 京橋の上、南浜町より中書島に架(わた)す。橋の長さ三十二間、幅二間。この橋すぢは京街道の往還にして、上り下りの行人たゆることなく至って賑はし。
 船上がりの旅客京師に到るに、おのおのその勝手に任せて同じからずといへども、およそこの橋条(すぢ)を北へ下板橋通に至り(この所行きあたりにして、右はいなりかいだう、左は竹田かいだうなり)、右へとりて墨染・深草を経て京に入るを、本街道といふ(あるいは伏見街道・稲荷街道と云ふ)。また左へとり下板橋を渡り車道に出でて北に上る(これ東桐蔭通にして竹田街道といふ。西六条に趣くは六軒茶屋の南の方より西によぎりて、竹田村より油小路にいづる。これを西竹田道といふ。)

 たくさんの橋が出てきましたので、地図で確認しておきます。
A:京橋    B:蓬莱橋
C:肥後橋   D:阿波橋
E:今富橋   G:下板橋
F:蓬莱橋から北へ下板橋通に至る突き当り。右は稲荷街道、左は竹田街道に通じています。


明治42年陸地測量部地図と最新の国土地理院地図
いずれも明治期の低湿地を重ねています。


 次に、大阪くらしの今昔館が所蔵する「よと川の図」の伏見付近を見てみましょう。
 淀から京街道を歩いてきた旅人は地図の右下「大坂かい道」とある所に出ます。この辺りは「下三栖」と呼ばれていました。岸から綱で引かれる上り船が描かれています。
 ここから「向はし(本文の肥後橋に当たる)」を渡ると伏見のまちです。橋の東詰は「西はま町」、左手(北)に進むと「北はま町」に至ります。そこから「京はし」を渡ったところが三十石船の船着き場になります。
 「京はし」の奥には「中書島」「弁才天」が見え、遠景には「宇治山」が描かれています。なお、この絵は、伏見の町を北西の上空から見た風景を描いています。


「よと川の図」の伏見付近(大阪くらしの今昔館蔵)


 伏見付近の地域の変遷を地形図で見てみましょう。
 1枚目は明治42年の地形図に明治期の低湿地(明治20年ころの水面(水色)・水田(黄色)・湿地(紫)・荒地(緑)を表す)です。宇治川の本流から支流が分かれ、伏見の港に至る水路を形成しています。川幅が多少狭くなっているようですが、江戸時代もこれに近い地形であったと想像されます。

明治42年陸地測量部地図+明治期の低湿地

 2枚目は明治42年地形図に色別標高図を重ねました。図の右上の山がかつて伏見城があったところです。伏見はその城下町として町が形成されました。

明治42年陸地測量部地図+色別標高図

 3枚目は、地理院地図に明治期の低湿地を重ねました。京阪中書島駅の西から北へ延びる水路は埋め立てられて道路となり、西に延びる幅の広い水面(体育館の文字のある辺り)は埋め立てられて伏見港公園となっています。三栖から京橋を経て観月橋に至る水路は現存しており、十石船などの遊覧船が通っています。緑の道路は第二京阪道路(高速道路)です。洛南道路とも呼ばれています。

最新の国土地理院地図+明治期の低湿地

 4枚目は地理院地図に色別標高図を重ねたものです。新しく築かれた新高瀬川が伏見の町の西を南北に流れています。赤い道路は国道で、地図の左手は1号線、右手は24号線です。黄色は府道です。京阪電車、近鉄電車、JR奈良線が見えます。

最新の国土地理院地図+色別標高図

 最後は、地理院の空中写真です。右上の緑は伏見桃山御陵、右下は巨椋池が干拓された向島ニュータウン、そのほか住宅団地も見えますが、伏見の町は古くからの建物が多く残っています。高瀬川とつながる水路もよくわかります。

国土地理院空中写真


 今回は、「淀川両岸一覧」の「伏見 京橋」をご紹介しました。今回で、三十石船による大坂八軒家から伏見までの船旅は終了します。次回からは徒歩で稲荷街道を京へ向かいます。


〇企画展「景聴園×今昔館 描きひらく上方文化」開催中です

 令和2年11月4日(水)~11月23日(月・祝)

 「景聴園(けいちょうえん)」は京都で日本画を学んだグループです。80〜90年代生まれの関西出身の作家5名と企画を担当する2名が所属し、2012年に結成されました。同世代でありながらも異なる制作スタイルを持つ作家たちを中心に、日本画を通して文化と歴史を再考することで絵画のあり方を見つめ、日夜議論を重ねながら制作と発表を続けてきました。第6回目を迎える今回の展示は、大阪での初開催となります。
 大阪くらしの今昔館は、大阪における住まいの歴史を紹介する一環として、江戸時代を中心に近代までの美術・歴史資料を所蔵しています。それらは床の間や座敷で掛軸や屏風として、生活の中を彩るものとして、生活に取り入れられてきました。時代の流れとともに住まいは郊外にうつり、座敷を持たない家も増え、生活の中で日本画に親しむ機会も少なくなってしまいました。しかし現在も、連綿と続いてきた日本画の歴史を継承して学び、絵を描くことについて問いかけながら制作活動をつづける人たちがいます。
 景聴園の作家たちは当館で展示をするにあたり、所蔵品の熟覧を重ねることで大阪の歴史と文化から着想を得て、それぞれのテーマを設けました。本展では、5者5様のアプローチによって描き出された景聴園の新作を中心に今昔館の所蔵品も交えながら、上方で発展してきた都市文化が持つ奥深い世界を展開します。

こちらから企画展の紹介動画をご覧いただけます。

https://www.youtube.com/watch?v=JfeeQ8ShSgo&feature=youtu.be

上坂秀明「水のニオイのする町」2020年
上坂秀明「ナゾトキヤマ」2017年
合田徹郎「Across the Frontier」2020年
合田徹郎「霊猫/狼/インターフェース」2019年
服部しほり「金太の船渡御」2020年
服部しほり「仙」2019年
松平莉奈「大阪はたらくおんなの十景」2020年のうち二景
松平莉奈「菌菌先生」2016年
三橋卓「蜻蛉」2020年
三橋卓「つなぎとめる方法」2019年


〇シンポジウム「美しい日本の暮らし・秋」の開催
 文化庁から委託を受け、公益財団法人山本能楽堂が企画・運営し、大阪市立住まいのミュージアムが共催で実施する「二十四節気七十二候~暮らしをいろどる生活絵巻~日本人ってすごい!」の一環としておこなうものです。

◇基調講演
 「生活を楽しむ日本人の暮らし・秋」大阪くらしの今昔館 館長 谷 直樹氏
◇事例報告
 「茶の湯の季節感」森 雅子氏 大徳寺玉林院
 「和装がふだん着だった頃」深田 智恵子氏 大阪くらしの今昔館
◇まとめ
 「美しい都市のくらしと創造性」
 佐々木 雅幸氏(文化庁文化創造アナリスト 大阪市立大学名誉教授)

日 時:令和2年11月29日(日)10:30~12:30
会 場:大阪市立住まい情報センター3階ホール 大阪市北区天神橋6丁目4-20
参加費:無料
定 員:150名(先着順)

詳しくはこちらからどうぞ。
http://konjyakukan.com/topic.html#2020/11/12


〇落語家 桂米團治と歩く江戸時代の大坂〈①表通り編〉
 大阪くらしの今昔館の9階常設展示室にある江戸時代(天保年間)の大坂の町並みをご紹介する新しい動画ができました。案内人は上方の落語家、桂米團治師匠です。
 こちらからどうぞ。
https://www.youtube.com/watch?v=n1moBJy5uB4


〇大阪くらしの今昔館は感染予防に注意して再開しています

 ご来館のみなさまにも、体温検査やマスクの着用などのご協力いただくことがございます。たいへんご不便をおかけしますが、ご理解・ご協力のほど、お願い申し上げます。なお、詳しくは、こちらをご確認ください。

 今昔館では、当面の間、以下の催し物の開催を中止しています。
・着物体験
・上方芸能・文化体験(町家寄席、お茶会など)
・町家衆による各種ワークショップ


〇大阪くらしの今昔館の紹介動画
 今昔館の江戸時代のフロアをご紹介する動画は4編あります。全4編の目次はこちらからどうぞ。
 こちらから、見たい部分だけを見ることができます。英語の字幕入りの動画を見ることもできます。
http://konjyakukan.com/link_pdf/what's%20this%20.pdf


 このほかに「天神祭となにわの町」をご紹介する動画があります。
https://www.youtube.com/watch?v=3or8fq4U8zE&feature=youtu.be


 また、今昔館の近代のフロアをご紹介する動画が2編あります。
https://www.youtube.com/watch?v=SbqzmybwKss&feature=youtu.be

https://www.youtube.com/watch?v=EohP-xqrOi4



〇【動画】重文茶室「蓑庵」ー構造模型で見る茶室建築の世界
 重要文化財 大徳寺玉林院茶室「蓑庵(さあん)」の実物大構造模型(竹中大工道具館所蔵)を京都工芸繊維大学名誉教授 日向進先生が分かりやすく解説してくださいます。
 こちらからご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=tqJEnPZckbc&feature=youtu.be



〇「今昔館のオンライン まなびプログラム」が公開されています
 大阪のまちと住まいや くらしのことを おうちで学んでみませんか?
 こちらからどうぞ。
 ⇒konjyakukan.com/link_pdf/今昔館のオンラインまなびプログラム.pdf



 大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからご覧ください。
http://konjyakukan.com/index.html


 「今週の今昔館」の第1回から第52回までは、「古地図で愉しむ大阪まち物語」に掲載しています。
 「今週の今昔館」の第1回はこちらからご覧ください。
http://osakakochizu.blogspot.com/2016/08/blog-post_5.html


 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。

「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。
http://www.sumai-machi-net.com/
初めての方はこちらからどうぞ。
http://www.sumai-machi-net.com/howtouse


2020年11月11日水曜日

今週の今昔館(240) 淀小橋 20201111

〇淀川両岸一覧にみる江戸時代の大坂(20)

 「淀川両岸一覧」は、江戸時代の大坂から京都までの淀川沿いの名所旧跡を挿絵を添えて紹介しています。このシリーズでは、淀川両岸一覧(上り船之部)に沿って、大坂から京都までの淀川左岸(川の流れから見て左側)沿いの風景を訪ねていきます。今回は「淀小橋」をご紹介します。淀城の北側で宇治川に架かっていた橋です。現在は宇治川が淀城の南側に付け替えられたため、橋の痕跡はありません。京阪電車淀駅の北西すぐ、納所(のうそ)交差点の手前あたりになります。

■淀小橋
 淀城に続く一枚には城郭の北側に架かる淀小橋が描かれています。絵の解説は次のとおりです。

≪橋の北詰に三嶋屋といふよき貨食店(りやうりや)あり。淀上がりの人はかねて蒿子(かこ)に約し置きて、此岸に船をよせて上陸す。是より宇治川の下流急なれば、綱引きの人夫を加ふるを例(ならひ)とす。伏見にいたる客衆も、やがて着船の支度に心いさみ、彼の柱本(はしらもと)の河堀に狸寝入せし親仁(おやぢ)も、目をひらきて綱引の割銭(わりせん)を出だす。彼方(かしこ)には荷物のふろしきをしめ直し、此方(こなた)には弁当の余りを調ぶるなど、皆、船中の通情なり。

橋の灯も おぼろに明けて 水ぐるま 千山≫

 小橋の界隈には多くの旅籠や茶店が軒を連ねていました。そのなかのひとつ、北詰にあった「三嶋屋」はすこぶる評判がよく、淀で船を降りる上り船の客に人気があったそうです。

淀川両岸一覧上船之巻「淀小橋」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)


 淀川筋でも淀小橋の辺りは特に流れが急で、その上橋脚の下は水流が巻いていて危険でした。棹の操作を誤れば、船を橋脚にぶつけ大事故になります。このため、橋脚には鉄燈籠が釣り下げられ、終夜灯火し、通船の便りとしました。

 淀小橋を過ぎると宇治川の流れは速さを増します。淀からの曳き船の場合も、通常は四人である水主(かこ)を増員し、船を川岸から綱で曳きつつ伏見をめざすのが慣例でした。人夫を増員すると当然割り増し料金を取られます。他の場所なら話は別ですが、船頭も船客も緊張する淀の辺りでは狸寝入りをすることもできず、むしろここまで来ると、船客も着船の支度に心が勇み、金払いも良かったと言います。

 橋を越え最後の曳き船が始まると、船内は急にざわめきたちます。荷物の風呂敷包みの口を締め直す人があるかと思うと、弁当の余りを確かめる人もいるといった様子です。長かった上りの船旅もそろそろ終着となります。

 また、淀小橋の上流、納所(のうそ)には過書船の番所があったと言います。通常、風雨をしのぐため、船には苫が葺いてありました。ただし、番所を通過する際にはこの苫を開けさせ、船中を改めたのです。そもそも納所という地名は、船で運ばれてきた物資を「納」め置く場「所」だったことにちなみます。往古より川の道の要衝として機能していたことが知られます。そのため、江戸時代には大坂から淀川を上ってきた朝鮮通信使が使用したという船着き場がありました。現在は、旧京阪国道の納所交差点から千本通を少し上がった場所に、「唐人雁木(がんぎ)旧跡」と刻まれた石碑だけが残っています。


 前回ご紹介した其五と淀小橋は、並べるとパノラマになります。また、淀大橋から淀小橋までの7枚はすべてつながり超ワイドなパノラマになります。クリックすると多少大きくなります。

淀川両岸一覧上船之巻「淀城其五、淀小橋」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)

淀川両岸一覧上船之巻「淀大橋から淀小橋」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)


 本文は次のとおりです。淀小橋から巨椋大池の全文を掲載しておきます。
■淀小橋
 城郭の上にあり。長さ七十六間、橋下の大間に鉄燈炉(かなどうろ)を釣り終夜(よもすがら)灯を燈じ通船の便(たより)とす。美豆よりこの所まで水上およそ十二丁十間といふ。
■伊勢向宮(いせむかひのみや)
 小橋の東にあり。天照太神をまつる。この所浮島なり。洪水の時といへどもあぶるることなし。この傍を大池口といふ。
■巨椋大池(おぐらのおほいけ)
 川すぢの傍にあり。前に葭島ありて船中よりは見えず。おぐらの入江とも伏見の大池ともいふ。長さ二十九町、幅十五町といふ。


 次に、大阪くらしの今昔館が所蔵する「よと川の図」の淀小橋から上流にかけてを見てみましょう。
 図の右端の淀城の傍を通り過ぎた京街道は、小橋を渡り宇治川の右岸を川に沿って進みます。街道に沿って船頭たちが綱で引き上げる三十石船が描かれています。宇治川の流れが急な箇所で、上り船の最後の曳舟となります。
 小橋の左手に「浮嶋明神」が描かれ、「大池」「一口村」「いちたむら」「佐古むら」の文字が見えます。それぞれ、巨椋池、一口(いもあらい)、市田村、佐古村で、明治42年の地形図で確認することができます。なお、この絵は、宇治川の北側の上空から見た風景を描いています。絵の左手が上流側で、宇治川を遡ると伏見に至ります。


「よと川の図」の淀小橋付近(大阪くらしの今昔館蔵)


 淀付近の地域の変遷は、前々回ご紹介した内容と重なりますので、簡単にご紹介します。
 明治42年の地形図では、宇治川は淀の町の南側に付け替えられた後ですが、旧宇治川の川筋が残っており「小橋」の文字も見えます。京街道の道筋も読み取ることができます。
 最新の国土地理院地図では、旧宇治川が埋め立てられて市街地化しており、川筋をたどることは難しくなっています。ここでは、地理院作成の「明治期の低湿地」を重ねましたので、水色の部分が旧宇治川の川筋です。納所(のうそ)交差点は、旧街道の交差する所に斜めに旧国道1号線が通ったため、変則的な交差点になっています。

明治42年陸地測量部地図+明治期の低湿地
最新の国土地理院地図+明治期の低湿地

 地理院の空中写真です。図の中央やや下の濃い緑のところが淀城跡です。この写真から、付け替え前の宇治川の川筋をたどることは難しいと思われます。

国土地理院空中写真

 最後にもう1枚、当時の景観に最も近いと思われる明治22年陸地測量部地図(仮製地図とも呼ばれる)を掲載しておきます。測量技術の水準が現在と異なるため、正確な比較は難しいですが、当時の大まかな地形を見ることができます。
 宇治川は付け替え前の流れが描かれています。現在よりも北側、淀城よりも北を流れていました。木津川は明治初年に付け替え工事が行われ、地図の左下の八幡付近で淀川と合流しています。付け替え前には地図に「木津川旧河道」と示したところを流れていました。淀から伏見までの京街道の道筋も確認することができます。
 付け替え工事前には淀城の北側で桂川と宇治川が合流し淀川となり、城の西側で木津川と合流していました。淀城は、まさに水に浮かぶ要塞のようであったと想像できます。

明治22年陸地測量部地図(仮製地図)
国際日本文化研究センター蔵


 今回は、「淀川両岸一覧」の「淀小橋」をご紹介しました。淀周辺は木津川・宇治川の付け替え工事などによって地形が大きく変わっていますので注意が必要です。


〇企画展「景聴園×今昔館 描きひらく上方文化」開催中です

 令和2年11月4日(水)~11月23日(月・祝)

 「景聴園(けいちょうえん)」は京都で日本画を学んだグループです。80〜90年代生まれの関西出身の作家5名と企画を担当する2名が所属し、2012年に結成されました。同世代でありながらも異なる制作スタイルを持つ作家たちを中心に、日本画を通して文化と歴史を再考することで絵画のあり方を見つめ、日夜議論を重ねながら制作と発表を続けてきました。第6回目を迎える今回の展示は、大阪での初開催となります。
 大阪くらしの今昔館は、大阪における住まいの歴史を紹介する一環として、江戸時代を中心に近代までの美術・歴史資料を所蔵しています。それらは床の間や座敷で掛軸や屏風として、生活の中を彩るものとして、生活に取り入れられてきました。時代の流れとともに住まいは郊外にうつり、座敷を持たない家も増え、生活の中で日本画に親しむ機会も少なくなってしまいました。しかし現在も、連綿と続いてきた日本画の歴史を継承して学び、絵を描くことについて問いかけながら制作活動をつづける人たちがいます。
 景聴園の作家たちは当館で展示をするにあたり、所蔵品の熟覧を重ねることで大阪の歴史と文化から着想を得て、それぞれのテーマを設けました。本展では、5者5様のアプローチによって描き出された景聴園の新作を中心に今昔館の所蔵品も交えながら、上方で発展してきた都市文化が持つ奥深い世界を展開します。

上坂秀明「ナゾトキヤマ」2017年
合田徹郎「霊猫/狼/インターフェース」2019年
服部しほり「仙」2019年
松平莉奈「菌菌先生」2016年
三橋卓「つなぎとめる方法」2019年


 

〇大阪くらしの今昔館は感染予防に注意して再開しています

 ご来館のみなさまにも、体温検査やマスクの着用などのご協力いただくことがございます。たいへんご不便をおかけしますが、ご理解・ご協力のほど、お願い申し上げます。なお、詳しくは、こちらをご確認ください。

 今昔館では、当面の間、以下の催し物の開催を中止しています。
・着物体験
・上方芸能・文化体験(町家寄席、お茶会などのイベント)
・町家衆による各種ワークショップ


〇大阪くらしの今昔館の紹介動画
 今昔館の江戸時代のフロアをご紹介する動画は4編あります。全4編の目次はこちらからどうぞ。
 こちらから、見たい部分だけを見ることができます。英語の字幕入りの動画を見ることもできます。
http://konjyakukan.com/link_pdf/what's%20this%20.pdf


 このほかに「天神祭となにわの町」をご紹介する動画があります。
https://www.youtube.com/watch?v=3or8fq4U8zE&feature=youtu.be


 また、今昔館の近代のフロアをご紹介する動画が2編あります。
https://www.youtube.com/watch?v=SbqzmybwKss&feature=youtu.be

https://www.youtube.com/watch?v=EohP-xqrOi4



〇【動画】重文茶室「蓑庵」ー構造模型で見る茶室建築の世界
 重要文化財 大徳寺玉林院茶室「蓑庵(さあん)」の実物大構造模型(竹中大工道具館所蔵)を京都工芸繊維大学名誉教授 日向進先生が分かりやすく解説してくださいます。
 こちらからご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=tqJEnPZckbc&feature=youtu.be



〇「今昔館のオンライン まなびプログラム」が公開されています
 大阪のまちと住まいや くらしのことを おうちで学んでみませんか?
 こちらからどうぞ。
 ⇒konjyakukan.com/link_pdf/今昔館のオンラインまなびプログラム.pdf



 大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからご覧ください。
http://konjyakukan.com/index.html


 「今週の今昔館」の第1回から第52回までは、「古地図で愉しむ大阪まち物語」に掲載しています。
 「今週の今昔館」の第1回はこちらからご覧ください。
http://osakakochizu.blogspot.com/2016/08/blog-post_5.html


 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。

「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。
http://www.sumai-machi-net.com/
初めての方はこちらからどうぞ。
http://www.sumai-machi-net.com/howtouse