2020年10月14日水曜日

今週の今昔館(236) 橋本 20201014

〇淀川両岸一覧にみる江戸時代の大坂(16)

 琵琶湖から大阪湾へと流れる淀川は、人の流れ、物の流れを担う交通の大動脈として機能してきただけでなく、人々の暮らしと大きく関わり、政治・経済・文化にも大きな影響を与えてきました。

 「淀川両岸一覧」は、約160年前の江戸時代の大坂から京都までの淀川沿いの名所旧跡を挿絵を添えて紹介しています。このシリーズでは、淀川両岸一覧(上り船之部)に沿って、大坂から京都までの淀川左岸(川の流れから見て左側)沿いの風景を訪ねていきます。今回は、河内と山城の国境を越えて山城国(京都府)に入り、宿場町「橋本」をご紹介します。

■橋本
 楠葉より引き始めた三十石船は、橋本を右に見て曳き船をしながら通過します。この曳き船が8度目になります。曳き船の様子は挿絵の右側に描かれているように、船の中央に立てた柱から綱を伸ばし、その端を川岸の綱引き道から引きます。
 この地は京街道(京都から見ると大坂街道)の宿駅とされますが、東海道を五十七次とする場合には、枚方の次は淀で、橋本は含まれていません。いずれにしても、街道筋1km余りに渡って旅籠、茶屋等の人家が建ち並ぶ宿場町でした。橋本を通ったオランダ人ケンペルは、戸数300戸と記し、枚方と同様に客引きの女性が軒先に目立つ宿場独特の風景を記録に留めています。
 挿絵のバックに広がる峰は男山で、石清水八幡宮が鎮座します。橋本はこの参道の登り口にあり、参拝客の遊興の地であったともいえます。

淀川両岸一覧上船之巻「橋本」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)


 橋本の絵は、男山に月光のさす夜の風景を描いています。賛の二作も、男山と月の取り合わせになっています。

 をとこ山 峰さし登る 月影に あらはれ渡る よどの川ふね 景樹

 香川景樹の和歌は、雲の切れ間から月が上がる様子を描く絵と同じく満月の状景と推察されます。

 新月や いつをむかしの 男山 其角

 一方の其角の発句は、新月の闇につつまれた様子を吟じたものです。

 絵の右端、中央あたりに描かれた酒楼に人影がみえます。おそらくは、月光に照らされた水無瀬から大山崎あたりにかけての風情を楽しみつつ、盃をかたむけるという趣向。そこを水主たちの引く三十石船が過ぎるさまは、景樹が詠んだ風景とイメージが重なります。

 橋本の名前の由来は、神亀2年(725)に行基が架けたと伝えられる山崎橋の東詰めに位置したことからくると言われています。この橋はその後、損失と架設を繰り返しましたが、近世元禄の頃に架けられた橋が朽ち果てて洪水で流されると、その後復興はされず、地名だけが残りました。
 山崎橋がなくなった後、その代役を務めたのが「橋本の渡し」で、対岸の摂州山崎へと渡したので、「山崎の渡し」とも呼ばれました。宿場筋を描いた挿絵の中ほど左手に渡し場が描かれ、4人の船客を乗せた渡し舟は渡し場を離れ、すでに川面に漕ぎ出しています。

 橋本について、本文の解説には次のように記されています。

 ≪大坂街道の駅にして、人家の地十一丁あり、茶店、旅舎(はたご)多く、いたつて繁花なり。八幡へ参詣の人、この所より上りてよし。≫

 石清水八幡宮をめざす篤信者で賑わっていたことがわかります。江戸時代の橋本には、名物の小豆餅を売る店があったといいます。現在では、大津の走井から伝わった走井餅がこの界隈の名物として知られています。


 「其二」の絵は、男山の北西麓、橋本の東端あたりの風景を描いています。川面には、帆を張り流れをさかのぼる船が見えます、船の右手には、男山の山裾。山上の石清水八幡宮へは、この橋本からも登ることができました。本文には次のようにあります。

≪雄徳山参詣道
 駅中の右の方に石壇、鳥居あり。山路十余町、中程に狩尾(とがのお)の社よて地主の神あり。八幡宮鎮座以前より在といひ伝ふ。≫

 ここにある参詣道は、北西側から山上をめざします。途中にある狩尾社は、貞観2年(860)に石清水八幡宮が創建されるよりも前から、この地にあったとか。現存する石清水八幡宮の社殿や楼門は、近世になって造られたもので、国宝に指定されています。賛は次の狂歌、発句と漢詩です。

 八はた山 梺に通ふ 淀ぶねの さしも仰がぬ 人やなからむ 古僲

 尻むけて 八幡をたつるや 帰る雁 尚白

 神滸溶々として匹練清む
 西山影を写し新晴に媚ぶ
 秭帰未だ叫ばざるに 春将に老いんとす
 但警詞を誦して古情を為すのみ  島棕隠

 2枚の絵を並べると、パノラマになっています。

淀川両岸一覧上船之巻「其二」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)

淀川両岸一覧上船之巻「橋本」と「其二」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)


 本文の解説は、次のとおりです。橋本の前後の全文を掲載しておきます。
■金川(こがねがは)
 楠葉村の北の端にあり。舟橋川よりこの所まで水上およそ三十二丁余。この川、河内・山城両国の境なり。
■金橋(こがねばし)
 右金川にわたすゆゑにかくは号(なづ)く。北詰より山州綴喜郡なり。
■広瀬渡口
 金橋の上にあり。摂州島上郡広瀬にわたす舟わたしゆゑかく号く。渡しの長さおよそ九十間といふ。俗に下の渡といふ。すなはちこの上にまた渡口あるゆゑなり。
■橋本駅
 金橋の上にあり。大坂街道の駅にして、人家の地十一丁あり、茶店、旅舎(はたご)多く、いたつて繁花なり。八幡へ参詣の人、この所より上りてよし。
 この地は往古山崎より架す大橋あって、その橋の詰めなるゆゑに橋本と号くよぞ。今中之町といへる所橋の渡口なり。山崎橋、「延喜式」および「文徳実録」に出でたり。今は船わたしとなる。
■橋本渡口
 右駅よりのわたし場なり。すなはち淀川を山崎にわたす。また一説に、山崎の橋のあとは狐わたしの所なりともいへり。いづれが是なりや、詳らかならず。
■雄徳山参詣道
 駅中の右の方に石壇、鳥居あり。山路十余町、中程に狩尾(とがのお)の社よて地主の神あり。八幡宮鎮座以前より在といひ伝ふ。
■樋之上
 橋本の町はずれをいふ。名物の小豆餅をひさぐ家あり。


 次に、大阪くらしの今昔館が所蔵する「よと川の図」の橋本付近を見てみましょう。
 図の右端の下島、上嶌、樟葉の左手に川が流れ、橋が架かっています。この橋が「こか祢はし(こがねばし)」で、「河内山城堺(国境)」になります。国境を越えたところに「橋本」、その先には「一里塚」が見えます。
 対岸には、「うとの」「中村」「上牧」「高浜村」「廣瀬」「みなせ川」の地名が記され、岸に沿って船頭らによって綱で引き上げられている三十石船(上り船)が描かれています。「高浜村」は、樟葉と高浜を結ぶ渡しがあったところです。


「よと川の図」の橋本付近(大阪くらしの今昔館蔵)


 橋本付近の地域の変遷を地形図で見てみましょう。
 1枚目は明治42年陸地測量部地図に「明治期の低湿地」を重ねたもので、水色は明治20年ごろの水面、黄色は水田、緑色は荒地を表しています。男山が淀川に迫る山裾に橋本の宿場町があり、町の中ほどで道路がクランク状に曲がっています。その西側から対岸へ渡す渡し舟が描かれています。町の中央で折れ曲がっている様子は「よと川の図」とも合致しています。街道の名前が府境を挟んで大阪側では「京街道」、京都側では「大阪街道」と表示されています。


明治41年陸地測量部地図+明治期の低湿地

 2枚目は、明治42年陸地測量部地図に現在の「色別標高図」を重ねたものです。現在の堤防の位置がわかりやすくなりましたが、この辺りでは明治初年以降、水害を防ぐために木津川、宇治川、桂川の三川の合流地点をできるだけ下流にするよう、河川改修が行われました。図中に「新宇治川」の文字も見えます。地図の右下に男山、左上に天王山がせまり、左岸を京街道と京阪電車、右岸を西国街道と官営鉄道(現在のJR)が通っています。

明治41年陸地測量部地図+色別標高図

 3枚目は、最新の地理院地図に「明治期の低湿地」を重ねたものです。濃い水色が明治20年ごろの淀川の流れを示しています。現在よりも上流で三川が合流して、左岸に近いところを流れていました。男山の南西側斜面が削られて、ニュータウンになっています。

国土地理院地図+明治期の低湿地

 4枚目は、最新の地理院地図に「色別標高図」を重ねたものです。黄緑色の部分は山が削られてニュータウンとなった地域です。木津川・宇治川・桂川の間の堤が長く伸びています。背割堤として有名な桜の名所となっています。地図の左下に府境を流れる「こがね川」が描かれています。

国土地理院地図+色別標高図

 最後は、地理院の空中写真です。写真で見ると山が削られてニュータウンとなっている様子がよくわかります。橋本との間にわずかに小山が残されています。三川の流れと背割堤もよくわかります。この写真は、木津川の水量が少ないときのようです。

国土地理院空中写真


 今回は、「淀川両岸一覧」の「橋本」をご紹介しました。



〇次回の企画展示は「景聴園×今昔館 描きひらく上方文化」です

 令和2年11月4日(水)~11月23日(月・祝)

 「景聴園(けいちょうえん)」は京都で日本画を学んだグループです。80〜90年代生まれの関西出身の作家5名と企画を担当する2名が所属し、2012年に結成されました。同世代でありながらも異なる制作スタイルを持つ作家たちを中心に、日本画を通して文化と歴史を再考することで絵画のあり方を見つめ、日夜議論を重ねながら制作と発表を続けてきました。第6回目を迎える今回の展示は、大阪での初開催となります。
 大阪くらしの今昔館は、大阪における住まいの歴史を紹介する一環として、江戸時代を中心に近代までの美術・歴史資料を所蔵しています。それらは床の間や座敷で掛軸や屏風として、生活の中を彩るものとして、生活に取り入れられてきました。時代の流れとともに住まいは郊外にうつり、座敷を持たない家も増え、生活の中で日本画に親しむ機会も少なくなってしまいました。しかし現在も、連綿と続いてきた日本画の歴史を継承して学び、絵を描くことについて問いかけながら制作活動をつづける人たちがいます。
 景聴園の作家たちは当館で展示をするにあたり、所蔵品の熟覧を重ねることで大阪の歴史と文化から着想を得て、それぞれのテーマを設けました。本展では、5者5様のアプローチによって描き出された景聴園の新作を中心に今昔館の所蔵品も交えながら、上方で発展してきた都市文化が持つ奥深い世界を展開します。

上坂秀明「ナゾトキヤマ」2017年
合田徹郎「霊猫/狼/インターフェース」2019年
服部しほり「仙」2019年
松平莉奈「菌菌先生」2016年
三橋卓「つなぎとめる方法」2019年

〇大阪くらしの今昔館は6月3日(水)から再開しています

 再開にあたっては、十分な予防対策に努めてまいります。これに伴い、ご来館のみなさまにも、体温検査やマスクの着用などの入館並びに観覧時にご協力いただくことがございます。たいへんご不便をおかけしますが、ご理解・ご協力のほど、お願い申し上げます。なお、詳しくは、こちらをご確認ください。

 今昔館では、当面の間、以下の催し物の開催を中止しています。
・町家ツアー(ボランティア等による展示解説)
・着物体験
・上方芸能・文化体験(町家寄席、お茶会など)
・町家衆による各種ワークショップ
・ギャラリートーク、講演会


〇「商家の賑わい」の展示

 大阪くらしの今昔館は大規模な展示替えが行われ、9月12日(土)から「商家の賑わい」の展示になっています。
 江戸時代の大坂の店先を再現し、当時の賑やかな商家の様子を楽しめます。



〇【動画】重文茶室「蓑庵」ー構造模型で見る茶室建築の世界
 重要文化財 大徳寺玉林院茶室「蓑庵(さあん)」の実物大構造模型(竹中大工道具館所蔵)を京都工芸繊維大学名誉教授 日向進先生が分かりやすく解説してくださいます。
 こちらからご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=tqJEnPZckbc&feature=youtu.be



〇大阪くらしの今昔館の紹介動画
 今昔館の江戸時代のフロアをご紹介する動画は4編あります。全4編の目次はこちらからどうぞ。
 こちらから、見たい部分だけを見ることができます。英語の字幕入りの動画を見ることもできます。
http://konjyakukan.com/link_pdf/what's%20this%20.pdf


 このほかに「天神祭となにわの町」をご紹介する動画があります。
https://www.youtube.com/watch?v=3or8fq4U8zE&feature=youtu.be


 また、今昔館の近代のフロアをご紹介する動画が2編あります。
https://www.youtube.com/watch?v=SbqzmybwKss&feature=youtu.be

https://www.youtube.com/watch?v=EohP-xqrOi4


〇「今昔館のオンライン まなびプログラム」が公開されています
 大阪のまちと住まいや くらしのことを おうちで学んでみませんか?
 こちらからどうぞ。
 ⇒konjyakukan.com/link_pdf/今昔館のオンラインまなびプログラム.pdf



 大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからご覧ください。
http://konjyakukan.com/index.html


 「今週の今昔館」の第1回から第52回までは、「古地図で愉しむ大阪まち物語」に掲載しています。
 「今週の今昔館」の第1回はこちらからご覧ください。
http://osakakochizu.blogspot.com/2016/08/blog-post_5.html


 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。

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