2020年10月22日木曜日

今週の今昔館(237) 狐渡口 20201022

〇淀川両岸一覧にみる江戸時代の大坂(17)

 琵琶湖から大阪湾へと流れる淀川は、人の流れ、物の流れを担う交通の大動脈として機能してきただけでなく、人々の暮らしと大きく関わり、政治・経済・文化にも大きな影響を与えてきました。

 「淀川両岸一覧」は、江戸時代の大坂から京都までの淀川沿いの名所旧跡を挿絵を添えて紹介しています。このシリーズでは、淀川両岸一覧(上り船之部)に沿って、大坂から京都までの淀川左岸(川の流れから見て左側)沿いの風景を訪ねていきます。今回は「狐渡口」をご紹介します。

■狐渡口
 橋本から北へ上がり、木津川、宇治川、桂川の3つの川が合流する地点の手前に狐渡しがあります。

 本文の解説は次のように記しています。

《八幡宮御参向道の鳥居の傍らにより、此のわたし場に出づる。山州乙訓郡円明寺村に渡る淀川の舟渡しなり。
 一説に、山崎の橋は桓武帝即位三年に是を造る。中頃より淀の橋をかけてより、此の橋絶えてなし。今は船渡しとなりて、狐渡と云ふ。俗に狐川といふは誤なり。往古の人家を南に移して、今橋本の宿といふ、是なりと云ふ。》

 「狐渡口」の絵は、手前、淀川右岸の円明寺から、奥、左岸の八幡を眺めた景色を描いています。左手が淀川の上流になります。川面には帆を張る荷船、三十石船、渡し舟がみえます。淀を横断するここの渡しは、「狐の渡し」と呼ばれていました。

 解説には鳥居の傍らとありますが、挿絵には鳥居は見当たりません。手前に右岸の渡し場が大きく描かれ、渡し守が煙管をくゆらす横に、八幡宮参詣客でしょうか、船待ちをする旅客が1人立っています。向こう岸に木陰になった船着き場らしき場所が見え、これが左岸の渡口でしょう。

淀川両岸一覧上船之巻「狐渡口」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)


 橋本の地名の由緒である山崎橋は、一説に狐渡しの位置にあり、旧橋本の人家を南に移したのが橋本宿であるとも伝えられますが、定かではありません。また、狐渡しの辺りは淀川の本流でありながら狐川の誤称があり、謎の多い場所です。3つの川が合流するこの辺りの地形は複雑で、まさに狐に化かされたような川筋なのかもしれません。

 絵の賛は、尾張の儒者熊谷荔齋(れいさい)の漢詩と、桜井梅室の発句です。

 遙天中絶へて一川浮ぶ
 白水青雲日夜流る
 風急にして扁帆去鳥を追ふ
 何人か千里滄洲に向ふ

 踊笠 着てよきつねの わたし守

 菅笠を被った旅人を、踊り笠を着た船頭が船渡しをする。ゆめゆめ化かされぬよう、ご注意を。梅室の句が、いかにも滑稽です。


 そもそもこの渡しの付近には、平安時代の三大橋のひとつ、山崎橋が架かっていたといわれていました。その後、この橋は絶え、淀大橋が宇治橋、瀬田の唐橋とともに三大橋となりました。狐の渡しは、その名前の珍しさから、谷崎潤一郎の「蘆刈(あしかり)」の舞台としても登場します。絵の左下のあたりが、「わたし」と「男」とが出会った岸辺なのかもしれません。

 ≪むかしの『澱川(よどがわ)両岸一覧』という絵本に、これより少し上流に狐の渡しという渡船場があったことを記して渡(わたり)の長サ百十間(けん)と書いているからここはそれよりもっと川幅がひろいかも知れない。そして今いう洲は川のまん中にあるのではなくずっとこちら岸に近いところにある。河原の砂利に腰をおろして待っているとはるかな向うぎしに灯のちらちらしている橋本の町から船がその洲へ漕(こ)ぎ寄せる、と、客は船を乗り捨てて、洲を横ぎって、こちら側の船の着いている汀(みぎわ)まで歩いて来る。思えば久しく渡しぶねというものに乗ったことはなかったが子供の時分におぼえのある山谷(さんや)、竹屋、二子(ふたこ)、矢口(やぐち)などの渡しにくらべてもここのは洲を挟(はさ)んでいるだけに一層優長なおもむきがあっていまどき京と大阪のあいだにこんな古風な交通機関の残っていたことが意外でもあり、とんだ拾いものをしたような気がするのであった。

 前に挙げた淀川両岸の絵本に出ている橋本の図を見ると月が男山のうしろの空にかかっていて「をとこやま峰さしのぼる月かげにあらはれわたるよどの川舟」という景樹(かげき)の歌と、「新月やいつをむかしの男山」という其角(きかく)の句とが添えてある。わたしの乗った船が洲に漕ぎ寄せたとき男山はあだかもその絵にあるようにまんまるな月を背中にして鬱蒼(うっそう)とした木々の繁(しげ)みがびろうどのようなつやを含み、まだ何処やらに夕ばえの色が残っている中空(なかぞら)に暗く濃く黒ずみわたっていた。わたしは、さあこちらの船へ乗って下さいと洲のもう一方の岸で船頭が招いているのを、いや、いずれあとで乗せてもらうがしばらく此処で川風に吹かれて行きたいからとそういい捨てると露にしめった雑草の中を蹈(ふ)みしだきながらひとりでその洲の剣先の方へ歩いて行って蘆(あし)の生(は)えている汀(みぎわ)のあたりにうずくまった。まことに此処は中流に船を浮かべたのも同じで月下によこたわる両岸のながめをほしいままにすることが出来るのである。わたしは月を左にし川下の方を向いているのであったが川はいつのまにか潤(うるおい)のあるあおい光りに包まれて、さっき、ゆうがたのあかりの下で見たよりもひろびろとしている。

 洞庭湖(どうていこ)の杜詩(とし)や琵琶行(びわこう)の文句や赤壁(せきへき)の賦(ふ)の一節など、長いこと想い出すおりもなかった耳ざわりのいい漢文のことばがおのずから朗々(ろうろう)たるひびきを以(もっ)て唇(くちびる)にのぼって来る。そういえば「あらはれわたるよどの川舟」と景樹が詠よんでいるようにむかしはこういう晩にも三十石船(こくぶね)をはじめとして沢山の船がここを上下していたのであろうが今はあの渡船(とせん)がたまに五、六人の客を運んでいる外にはまったく船らしいものの影もみえない。わたしは提げてきた正宗の罎(びん)を口につけて喇叭(らっぱ)飲みしながら潯陽江頭(じんようこうとう)夜送レ客(よるきゃくをおくる)、楓葉荻花秋瑟々(ふうようてきかあきしつしつ)と酔いの発するままにこえを挙げて吟じた。そして吟じながらふとかんがえたことというのはこの蘆荻(ろてき)の生(お)いしげるあたりにもかつては白楽天(はくらくてん)の琵琶行に似たような情景がいくたびか演ぜられたであろうという一事であった。≫
(以上、谷崎潤一郎「蘆刈」より、
 初出:「改造」改造社 1932(昭和7)年11月号、12月号)

 「蘆刈」に描かれている中洲は下の地図のあたりだったのかもしれません。中洲を挟んで両側に渡し船があり、対岸(左岸)には橋本があります。「わたし」は、中洲の西の剣先(先端)から下流に向かってうずくまり、両岸を眺めていたのでしょうか。
 前回の「橋本」のときにご紹介した方が良かったかもしれませんが、「狐の渡し」という文字がずばり書かれていましたので、今回ご紹介することにしました。

昭和6年地形図の水無瀬・橋本付近

 上り船の上巻は、ここまでです。次回からは、下巻となります。


 次に、大阪くらしの今昔館が所蔵する「よと川の図」の八幡付近を見てみましょう。
 図の右端の「一里塚」から、途中少し省略されていますが、「やはた」「八幡御幸道」の文字が見えます。後ろには、男山と八幡宮も描かれています
 対岸には、右手から「上牧」「高浜村」「廣瀬」「みなせ川」「離宮八幡」「山さき」「たから寺」「天王山」の地名が記されています。岸に沿って船頭らによって綱で引き上げられている三十石船(上り船)が描かれています。


「よと川の図」の八幡付近(大阪くらしの今昔館蔵)


 八幡付近の地域の変遷を地形図で見てみましょう。

 この地域は3つの川が合流する洪水の多発地帯で、川の付け替えなどによって地形が大きく変わっています。少し丁寧に見ていきましょう。

 1枚目は「京街道~東海道五十七次から五十四次を歩く」という本から、八幡付近の地図です。太い線が京街道です。「楠の木」から右上に点線で描かれていますが、京街道が淀川を斜めに横断しています。まさか川の中を歩いたわけでは無いと思われます。

八幡付近の京街道(「京街道」より)

 2枚目は、明治22年陸地測量部地図(仮製地図とも呼ばれる)です。測量技術の水準が現在と異なるため、正確な比較は難しいですが、当時の大まかな地形を見ることができます。木津川は明治初年に既に付け替えられていますが、宇治川は付け替え前の流れが描かれています。現在よりも北側、淀城よりも北を流れていました。
 地図の右下から左上に向かって街道が通っています。その左手にも堤防跡のような道があります。この間が付け替え前の木津川の水路と思われます。「美津村」という文字のあるところです。「美津村」の北西で宇治川・桂川と合流していたとすると、先ほどの地図の点線は陸地(たぶん堤防上)になりますから、淀に向かって直進できたことがわかります。

明治22年陸地測量部地図(仮製地図)

 3枚目の地図は、国土地理院地図の治水地形分類図というものです。4枚目はその拡大版です。
 現在の地図に河川の堤防の状況や旧河道などを示したものです。この地図で、木津川のかつての河道が確認できます。水色に塗られた部分で、先ほどの推定どおりとなっています。
 宇治川も、淀の町の南側に付け替えられています。直線状に流れていて、いかにも人工の川筋となっています。

地理院地図の治水地形分類図

 川の中に流れに直角に線が引かれ、数字が書かれています。数字は河口からの距離を示しています。宇治川(中央の川)の37.0Kのところで桂川が分岐して、桂川にはここを起点にした数字が書かれています。また、宇治川の35.8K付近で木津川が分岐しています。
 実際の川の流れは、宇治川と木津川が先に合流し、さらに下流で桂川と合流していますが、河川管理上は宇治川と桂川が先に合流しており順番が違っています。宇治川と木津川の間には、少し幅のある背割堤があるからでしょうか。


地理院地図の治水地形分類図(拡大)

 次の地図は、明治42年陸地測量部地図に「明治期の低湿地」を重ねたもので、水色は明治20年ごろの水面、黄色は水田、緑色は荒地を表しています。宇治川には水色が塗られていません。合流地点付近を見ると「新宇治川」の名前が見えます。明治18年の淀川大洪水の後、明治39年に宇治川が巨椋池と分離され、現在の水路となっています。完成後間もないので「新」が付けられているのでしょう。街道の名前は京都府に入ってからは「大阪街道」と表示されています。

明治41年陸地測量部地図+明治期の低湿地

 2枚目は、明治42年陸地測量部地図に現在の「色別標高図」を重ねたものです。現在の堤防の位置がわかりやすくなりましたが、この辺りでは明治初年以降、水害を防ぐために木津川、宇治川、桂川の三川の合流地点をできるだけ下流にするよう、河川改修が行われました。図中に「新宇治川」の文字も見えます。地図の左下に男山がせまり、左岸を京街道と京阪電車が通っています。京阪電車は2つの川を鉄橋で渡るため、大きくカーブを描いて走っています。

明治41年陸地測量部地図+色別標高図

 3枚目は、最新の地理院地図に「明治期の低湿地」を重ねたものです。濃い水色が明治20年ごろの淀川の流れを示しています。現在よりも上流で三川が合流して、左岸に近いところを流れていました。緑色は荒地、うす紫色は湿地を示しています。現在宇治川が流れている付近には、荒地や湿地が拡がっていたことがわかります。

国土地理院地図+明治期の低湿地

 4枚目は、最新の地理院地図に「色別標高図」を重ねたものです。木津川・宇治川・桂川の間の堤が長く伸びています。淀川河川公園の文字の見えるあたりは、背割堤として有名な桜の名所となっています。

国土地理院地図+色別標高図

 最後は、地理院の空中写真です。写真で見ると3つの川と河川敷の様子がよくわかります。この写真は、木津川の水量が少ないときのようです。木津川は川幅のわりに水面は少ないですが、豪雨の際には満水になるのでしょう。宇治川はいかにも人工の川という感じです。

国土地理院空中写真

 「淀川両岸一覧」の本文にある「山州乙訓郡円明寺村」とは、どの辺りなのか、グーグルマップで検索してみました。大山崎町の大字名に「円明寺」がありました。地図の白く表示されている地域が「大字円明寺」です。桂川のすぐ北側までが地域に含まれていますので、ここから対岸の八幡まで渡しがあったことが納得できます。当時は、上流で宇治川・木津川とも合流したあとですから、もっと川幅は広かったかもしれません。
 桂川河川敷公園の対岸には「狐川」の文字が見えます。この辺りに狐の渡しがあったのかもしれません。


グーグルマップの大山崎附近

 もう一枚、マピオン地図でも確認しました。「狐川」の文字が確認でき、「誤りなり」と言われながらも、地名として残っているのは面白いことです。

マピオン地図の大山崎附近

 今回は、「淀川両岸一覧」の「狐渡口」をご紹介しました。八幡周辺は川の付け替え工事などによって地形が大きく変わっており、現地へ行っても昔の面影は実感できないかもしれませんね。



〇次回の企画展示は「景聴園×今昔館 描きひらく上方文化」です

 令和2年11月4日(水)~11月23日(月・祝)

 「景聴園(けいちょうえん)」は京都で日本画を学んだグループです。80〜90年代生まれの関西出身の作家5名と企画を担当する2名が所属し、2012年に結成されました。同世代でありながらも異なる制作スタイルを持つ作家たちを中心に、日本画を通して文化と歴史を再考することで絵画のあり方を見つめ、日夜議論を重ねながら制作と発表を続けてきました。第6回目を迎える今回の展示は、大阪での初開催となります。
 大阪くらしの今昔館は、大阪における住まいの歴史を紹介する一環として、江戸時代を中心に近代までの美術・歴史資料を所蔵しています。それらは床の間や座敷で掛軸や屏風として、生活の中を彩るものとして、生活に取り入れられてきました。時代の流れとともに住まいは郊外にうつり、座敷を持たない家も増え、生活の中で日本画に親しむ機会も少なくなってしまいました。しかし現在も、連綿と続いてきた日本画の歴史を継承して学び、絵を描くことについて問いかけながら制作活動をつづける人たちがいます。
 景聴園の作家たちは当館で展示をするにあたり、所蔵品の熟覧を重ねることで大阪の歴史と文化から着想を得て、それぞれのテーマを設けました。本展では、5者5様のアプローチによって描き出された景聴園の新作を中心に今昔館の所蔵品も交えながら、上方で発展してきた都市文化が持つ奥深い世界を展開します。

上坂秀明「ナゾトキヤマ」2017年
合田徹郎「霊猫/狼/インターフェース」2019年
服部しほり「仙」2019年
松平莉奈「菌菌先生」2016年
三橋卓「つなぎとめる方法」2019年


〇大阪くらしの今昔館企画展 関連講演会「景聴園×今昔館」

 関西若手の日本画グループ「景聴園」の展覧会「景聴園×今昔館 描きひらく上方文化」の開催にあたり、これまでの活動と今回の企画展の展示内容について出展者が解説します。
◇日時 : 11月8日(日)13:30~15:00(開場は13時より開始)
◇講師 : 景聴園(出展者)
◇会場 : 大阪市立住まい情報センター5階研修室(当館ビル内)
◇交通 : Osaka Metro堺筋線・谷町線、阪急電鉄「天神橋筋六丁目」駅3号出口すぐ。JR「天満」駅北へ約650m)
◇定員 : 25名(申込先着順)
◇参加方法: 下記リンクからお申し込みください。(定員に達し次第、受付を締め切ります。)
https://www.osaka-angenet.jp/event/60/entry
 


〇大阪くらしの今昔館は6月3日(水)から再開しています

 再開にあたっては、十分な予防対策に努めてまいります。これに伴い、ご来館のみなさまにも、体温検査やマスクの着用などの入館並びに観覧時にご協力いただくことがございます。たいへんご不便をおかけしますが、ご理解・ご協力のほど、お願い申し上げます。なお、詳しくは、こちらをご確認ください。

 今昔館では、当面の間、以下の催し物の開催を中止しています。
・町家ツアー(ボランティア等による展示解説)
・着物体験
・上方芸能・文化体験(町家寄席、お茶会など)
・町家衆による各種ワークショップ
・ギャラリートーク、講演会


〇大阪くらしの今昔館の紹介動画
 今昔館の江戸時代のフロアをご紹介する動画は4編あります。全4編の目次はこちらからどうぞ。
 こちらから、見たい部分だけを見ることができます。英語の字幕入りの動画を見ることもできます。
http://konjyakukan.com/link_pdf/what's%20this%20.pdf


 このほかに「天神祭となにわの町」をご紹介する動画があります。
https://www.youtube.com/watch?v=3or8fq4U8zE&feature=youtu.be


 また、今昔館の近代のフロアをご紹介する動画が2編あります。
https://www.youtube.com/watch?v=SbqzmybwKss&feature=youtu.be

https://www.youtube.com/watch?v=EohP-xqrOi4



〇【動画】重文茶室「蓑庵」ー構造模型で見る茶室建築の世界
 重要文化財 大徳寺玉林院茶室「蓑庵(さあん)」の実物大構造模型(竹中大工道具館所蔵)を京都工芸繊維大学名誉教授 日向進先生が分かりやすく解説してくださいます。
 こちらからご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=tqJEnPZckbc&feature=youtu.be



〇「今昔館のオンライン まなびプログラム」が公開されています
 大阪のまちと住まいや くらしのことを おうちで学んでみませんか?
 こちらからどうぞ。
 ⇒konjyakukan.com/link_pdf/今昔館のオンラインまなびプログラム.pdf



 大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからご覧ください。
http://konjyakukan.com/index.html


 「今週の今昔館」の第1回から第52回までは、「古地図で愉しむ大阪まち物語」に掲載しています。
 「今週の今昔館」の第1回はこちらからご覧ください。
http://osakakochizu.blogspot.com/2016/08/blog-post_5.html


 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。

「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。
http://www.sumai-machi-net.com/
初めての方はこちらからどうぞ。
http://www.sumai-machi-net.com/howtouse


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