2021年8月11日水曜日

今週の今昔館(279) 難波橋、鍋島之浜 20210811

〇淀川両岸一覧にみる江戸時代の大坂(58)

 「淀川両岸一覧」は、江戸時代の大坂から京都までの淀川沿いの名所旧跡を挿絵を添えて紹介しています。このシリーズ前半では、淀川両岸一覧(上り船之巻)に沿って、大坂から京都までの淀川左岸(川の流れから見て左側)沿いの風景を訪ね、後半では、下り船之巻に沿って、京都から大坂までの淀川右岸沿いの風景を訪ねてきました。
 今回は「難波橋、鍋島之浜、山崎之鼻」をご紹介します。難波橋は大坂側の三十石船の発着場である八軒家から、さらに下流側に位置します。


■其二、難波橋、鍋島之浜、山崎之鼻
 江戸時代の「浪花の三大橋」といえば、上流から順に、天満橋、天神橋、難波橋。絵は最も下流側に架かる難波橋を南東の北浜付近から眺めた風景です。

 現在の難波橋は、中之島をはさみ、南を流れる土佐堀川と北を流れる堂島川の2つの川に架かっています。ところが、江戸時代には「当橋の下より中の島分遶(ぶんぜう)」し、「北を裏川といひ南を土佐堀」とよんでいたのだという。つまり、中之島の東端は、難波橋よりも西にあったということです。絵の左上に見える「山ざきのはな」がそれ。本文を見ると、「はな」は「端」と「鼻」の両方の字をあてていたことがわかります。

≪此の所より東方の瞻望(せんもう)、佳景也。風流の貨食家(りゃうりや)、富家の隠居所などありて、無双(ならびなき)勝地なり。夏夕は、納涼の遊参船水面に充満し、橋上の往来、両岸の茶店、賑しき事、言いも尽くしがたし。≫

 この「山ざきのはな」から東を望めば「浪花の三大橋」や大坂城に加え、富裕な商人たちの隠居する家屋が甍を競うようすがみえ、「無双勝地」であったという。中高層ビルが建つ現代の風景とは、大きく異なっていました。

淀川両岸一覧下船之巻「其二、難波橋、鍋島之浜、山崎之鼻」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)

 絵の右上には、幕末の京俳壇で活躍した、伴水園(八木芹舎)の発句。

 月と船すずしや橋の右ひだり 伴水園

 また、左上には楳原の狂歌。

 またたぐひなにはの橋と夕風やちと山崎のはな高うして 楳原

 「月」や「夕風」とあるように、川辺に灯りのともる夜景が、文人たちに好まれていたようです。

 絵の上部の対岸は西天満で、鍋島藩(肥前国佐賀藩のこと)の蔵屋敷があったことにちなみ、「鍋島の浜」と呼ばれていました。絵にも見えるとおり、水運に適したこの一帯には、間口を広くとった屋敷が並んでいました。江戸時代初めから元禄十年(1697)までは北浜に、それ以降は堂島に米市場がたち、各国各地から運ばれてくる米が取引されていました。つまり、市場からほど近い西天満は、格好の集積場だったことから、多くの藩の蔵屋敷が建っていました。
 この絵の下部、左右に霞がかかっているあたりは北浜です。上り船の巻本文では「金相場浜」という項目を立てて次のように記しています。

≪難波橋の南詰、東にあり。北浜一丁目なり。浪花市中の両替屋、日毎にここに集まり金の売買をなし、相場を立て金の価を定む。浪花の一奇なり。≫

 金相場の地がまだ米市場だった頃の女性の成功譚を、井原西鶴の「日本永代蔵」にみることができます。「浪風静かに神通丸」には、若いうちに後家となった老婆が、米市の筒落米(つつおまい)を拾いつつ、息子を立派に育てた逸話が登場します。米俵の中身を調べる際、竹筒を差し込んで米を抜き取ります。抜き取った米はわずかな量ですから、地面に捨てられる。これに目を付け、箒で集め、砂や塵を取り除いて売ったのです。子を抱える女性でも知恵を絞れば生き残ることができる。当時の大坂経済は、それほどに活況だったということなのでしょう。
 江戸時代をとおして、難波橋付近は、経済の中心でもあったのです。


 下り船の巻では「なほ難波橋の風景は、前にくはしく著せば略して、ここに筆をとどむ。」として省略されています。難波橋の解説は、上り船の巻に記されていますので、ここで改めて紹介します。
 上り船の巻の本文は、「大坂」に始まり、難波橋、金相場浜、築地、東堀、天神橋、八軒家、天満橋と続きます。
 挿絵の1枚目は「大坂 八軒家」ですが、本文は「大坂」という項目から始まり、八軒家の下流の難波橋に続きます。「大坂」のところでは古代からの呼称である「難波」の名について触れ、その名を冠した「難波橋」から始めるというこだわりかもしれません。
 上り船の巻では、淀川左岸の地名・名所を下流から上流に向かって順次紹介しています。したがって「○○の上にあり。」(=○○の上流に位置する)という説明が頻出します。

■大坂
 難波津といふ。浦・海・潟・江・里・または難波人・難波男・難波女等の古詠多し、また浪速(なみはや)国・浪華(なみはな)等は神武帝の御宇(おんとき)よりの古名なり。
 大坂といふ号(な)、上古には聞こえず。按ずるに、大江坂(おほえのさか)の略訓ならんかといふ説あり。さもあらんか。大江は難波江の一名にして人王十七代仁徳天皇第一の皇子を大江伊耶本和気命(いさほわけのみこと)と申す。(受禅の後は履中天皇と称す。すなはち十八代の帝なり)。この時大江の号初めて聞こゆ。そもそも当津は海陸の都会天下の要衝にして、西州の喉口(ここう)、皇州の閫域(こんいく)たり。群峯右に繞(めぐ)り、平野左に連なる。澱水は内に貫き、江海外を抱く。山川の明麗、田野の壌腴(じょうゆ)、海浜の広斥、沢国の佳致にして、他邦に類せず。かるがゆゑに諸国の米穀、材石および和漢の雑貨ここに着船して、朝の市、暮の市街(ちまた)に囂(かまびす)しく、縦横四衢(しく)の賑はしき事海内(かいだい)に冠たり。
■難波橋
 浪花三大橋の一なり。南詰は船場北浜にあり。北詰は西天満に架かれり。長さ百十四間六尺、欄檻(らんかん)天弓(にじ)のごとくに連なりすこぶる壮観なり。
 山州淀河の下流、浪華に入り天満川と号す。当橋の下より中の島を分遶(ぶんじょう)し、北を裏川といひ南を土佐堀といふ。世俗ともに大河(おほかは)と呼ぶ。中の島の東の﨑を山崎の端(はな)と号す。この所より東方の瞻望(せんもう)佳景なり。風流の可食家(りょうりや)、富家の隠居所などありて、無双(ならびなき)勝地なり。夏の夕は、納涼の遊参船、水面に充満し、橋上の往来、両岸の茶店、賑しき事、言いも尽くしがたし。獅子堂の云く、橋は百丈にして水ゆるく流れ、日は金城の上に出でて影孤舟を沈む。諺にこの所を浪花第一の美景といへるもよろしきに似たり云々。
 長き夜もわたれば明けぬ難波ばし  獅子堂

■金相場浜
 難波橋の南詰、東にあり。北浜一丁目なり。
 浪花市中の両替屋、日毎にここに集まり金の売買をなし、相庭(そうば)を立て金の価を定む。浪花の一奇なり。
■築地
 金相場の東にあり、蟹島ともいふ。
 この地は僅かの地所といへども、旅宿(やどや)・貨食家(りょうりや)・貸座敷などりて、いづれも清らかに風流(みやび)たり。(天明三卯年増地ありて今のごとくになりて、すこぶる繁昌の地とはなれり)
■東堀
 築地の端より、大河を引きて南に流す。天正十三年開鑿すといふ。委しくは東横堀なり。築地よりこの堀を架せる橋を葭屋橋といふ。東爪を京橋六丁目といふ。
■天神橋
 難波ばしの上にあり、川上より第二の大橋なり。長さ百二十二間三尺、高欄巍々として壮観なり。南詰は京橋六丁目、北詰は東天満十丁目といふ。
 当橋の通は、北は十丁目条(すぢ)より長柄に通じ、京師に登西街道に至り、南は松屋町通より下寺町に至る道条(みちすぢ)なるゆゑ、都鄙の行人往返引きもきらず、あたかも櫛の歯をひくがごとし。ことさら北詰には青物の市場ありて、朝ごとの群衆雲霞のごとく、その賑はひ言語に絶す。天満宮参詣の通路なるがゆゑにかくは号(なづ)くるものなるべし。

そして■八軒家(天神橋南詰の東にあり、京師上下の船着きにして船宿のきを連ね、昼夜ともに賑はし。古名を十日宿といふ、大坂古図に見えたり。)へと続き、ここから上り船の旅が始まります。続きはこちら「淀川両岸一覧にみる江戸時代の大坂(2)」をどうぞ。
http://konkon2001.blogspot.com/2020/06/blog-post_30.html


 下り船の巻の本文は、「淀河条道法(よどがわすぢみちのり)」で締めくくられています。三十石船は大坂八軒家までですが、「みちのり」は大阪西川口までとなっています。淀水垂から大坂京橋までの水勾配も記されています。

■淀河条道法(すぢみちのり)
〇伏見豊後橋より大阪西川口まで十三里四丁十三間。
 〇豊後橋より淀小橋まで一里七丁四十八間。
 〇淀小橋より江口三ツ頭まで六里五丁四十七間。
 〇江口三ツ頭より長柄三ツ頭まで二里二十四間。
 〇長柄三ツ頭より天満橋まで三十五丁二十八間。
 〇天満橋より川口木津新田まで二里二丁三十間。
 〇淀水垂(みづたれ)より大坂京橋まで水勾培(みづこうばい)八丈四尺五寸五分。



 次に、大阪くらしの今昔館が所蔵する「よと川の図」の難波橋、鍋島之浜、山崎之鼻付近を見てみましょう。絵の左手が上流、右手が下流になります。絵の手前側が淀川の右岸で、左から「天神橋」「本泉寺」「なにはゝし」「中の嶋」のラベルが見えます。中之島の東の端が山崎の鼻です。なにわ橋は大川に架かっていますが、中央部と北詰部分が霞でぼかされています。
 対岸の淀川左岸には、左端に「八軒家」、中央奥に「西御番所」「思案橋」「本町橋」の文字が見えます。八軒家浜付近には多くの船が描かれています。八軒家浜の奥には、釣鐘屋敷と火の見櫓が見えます。


「よと川の図」の難波橋、鍋島之浜、山崎之鼻付近
(大阪くらしの今昔館蔵)


 浪花百景には、「三大橋」「浪花橋夕景」「大江ばしより鍋しま風景」があります。

■三大橋(国員画)
 『浪花百景』は、大坂の浮世絵師3人の合作による錦絵で、安政年間(1854~60)のころ、北浜の「石和」から出版されました。桜宮、野田藤、四ツ橋、天保山、住吉高灯籠など、当時の100の名所が色鮮やかに描かれ、この「三大橋」もその一つとして採り上げられています。

浪花百景「三大橋」(大阪市立図書館蔵)

 大川に架かる橋は手前から、難波橋、天神橋、天満橋。現在の中之島の御堂筋上空あたりから東南の方向を臨む風景です。水の都と呼ばれていただけに、町を縦横に走る川や堀には数多くの橋が架けられていました。その中でも整然と3つ並んだ橋の光景は美しかったに違いなく、「浪華三大橋」と称されました。大坂城の櫓や四辺の青松を含めたこれらの橋の眺望が人々に愛されていました。江戸時代に大和川が付け替えられ、明治後期に新淀川が開削されるまで、大川は旧淀川と大和川の二大河川が流入する文字通り最大の川で、川幅が広く水量も多く架橋は困難でした。

 秀吉の大坂城築城に伴い、まず天満橋が架けられ、江戸時代初期には三大橋が出そろいました。いずれも公儀橋として幕府が維持管理を担いました。三大橋は大坂を政治的、経済的に支えるのみならず、庶民の遊興、娯楽がこれらの橋を中心に生み出されました。大坂城越しに生駒山から昇る朝日が町の繁栄を象徴しています。

 いま、「難波橋」は親柱の上のライオン像から「ライオン橋」と呼ばれ、そして、「天神橋」は流麗なアーチを持ち公園周辺の風景に溶け込んでいます。「天満橋」は後に出来た高架橋により“重ね橋”としての風景を生み出しました。風景は大きく変わりましたが、これら浪華の三大橋は今もその重要な役割に変わりはありません。


■浪花橋夕景(国員画)
 現在、堺筋を土佐堀川と堂島川に架かる「難波橋」は、大正4年(1915)市電が走る橋として掛け替えられるまで一つ西の難波橋筋に架かっていました。当時は中之島は難波橋の西までしかなく、大川に架かる長い橋でした。架橋年代については豊臣時代に架橋されたのではないかといわれていますが、『元亨釈書』に天平17年(745)僧行基が摂州に難波橋を架けたという記事もあり、正確なところは定かではありません。

 江戸期には浪華三大橋として公儀橋に指定され、界隈には諸藩の蔵屋敷が建ち並びそれを取り巻くように問屋街が形成され、大変な賑いをみせていました。また納涼や花火見物、花見、月見にも絶好で舟遊びや避暑を楽しむ行楽地でもありました。現在は堂島川、中之島公園、土佐堀川にまたがって架かり、ライオン像を有することで知られています。堺筋にありますが、名前は難波橋を引き継いでいます。

浪花百景「浪花橋夕景」(大阪市立図書館蔵)


■大江ばしより鍋しま風景(国員画)
 元禄期は大坂市街地の拡張整備が進んだ時期で、堂島川が改修され、造成地と中之島との間に新しく5本の橋が架けられました。
 中之島と堂島を結ぶ大江橋は、17世紀末に堂島新地が開かれた際に架けられました。
 淀屋橋から大江橋北詰に米市場が移ると、一気にメインストリートとなり、のち淀屋橋とつながって御堂筋を形成することになります。
 米市場に近いため、近辺には諸藩の蔵屋敷が建ち並んでいましたが、画中の大江橋を渡る相場附を腰に掛けた米仲買人の足元から覗く白壁の佐賀鍋島藩蔵屋敷は周辺の蔵屋敷群の中でも規模が大きく、立派な舟入橋も設けられていました。
 蔵屋敷というと、外観を描いている絵や写真が多いため、どうしても「蔵」のイメージが強く「屋敷」を忘れてしまいがちですが、蔵屋敷にも江戸の大名屋敷と同様の御殿があり、西日本の諸藩の大名は参勤交代の際には大坂の蔵屋敷に立ち寄ったといわれています。米を直接搬入できるように「舟入」を持っている蔵屋敷もありました。佐賀藩蔵屋敷はその代表格ともいえるものです。
 明治の廃藩に伴い、跡地は裁判所となり、現在は大阪高等裁判所となっています。

浪花百景「大江ばしより鍋しま風景(国員画)」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)
佐賀藩大坂蔵屋敷(「大阪・都市住宅史」より)

 暁鐘成が著した大坂名所案内記「浪華の賑ひ」も浪華三大橋から始まります。
 「浪華の賑ひ」の本文は高麗橋から始まりますが、その前にまず全体を俯瞰してみようということでしょうか、高麗橋の前に難波三大橋の絵が2枚あります。1枚目に「浪花江や橋と舟とに月いくつ 翠鶯」の句が記されています。

浪華の賑ひ「浪華三大橋」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)
浪華の賑ひ「浪華三大橋」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)

 この2枚は並べるとパノラマになっています。

浪華の賑ひ「浪華三大橋」
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)

 画面手前を大川が流れ、左手から順に天満橋、天神橋、難波橋が描かれています。難波橋の右手に中之島が描かれ、堂島川と土佐堀川に分かれます。土佐堀川には、栴檀木橋(せんだんのきばし)が架かっています。
 天満橋と天神橋の間には、八軒屋が描かれ、背景には大坂城が詳細に描かれています。櫓が多数あった様子がよくわかります。さらに背景には生駒山が描かれています。
 天神橋と難波橋の間で、東横堀が分かれ、いくつかの橋が架かっています。手前から、葭屋橋、今橋、高麗橋、平野橋、思案橋です。
 船場や内町の町家が描かれていますが、詳しく見て見ると、大坂城の右手には釣鐘屋敷があります。高麗橋の西詰には矢倉屋敷が描かれています。

 細部まで詳細に具体的に描かれている点が「浪華の賑ひ」の特徴と言えそうです。
 同じ三大橋を描いても、先に紹介した浪花百景では、「浪華の賑ひ」の左3枚をぐっと圧縮して縦長の構図としています。朝日や鳥が大きく描かれ、難波橋には武士の一団の行列が描かれています。アート的・イラスト的・トピック的な表現となっていることがわかります。


 暁鐘成が描いている、幕末・大坂の観光ガイドマップ「浪華名所獨案内」の難波三大橋付近を見てみましょう。

浪華名所獨案内(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)

 天神橋は現在と同じ位置に架かっていますが、天満橋は現在よりも一筋東の天満橋筋に、難波橋は現在よりも一筋西の難波橋筋に架かっていました。

 大正3年の地図を見ると、新旧2つの難波橋が架かっています。新しい橋には「大川橋」の名前がついています。市電敷設に伴う道路拡幅の際に、一筋東の堺筋が拡幅されて新しい橋が架けられました。旧難波橋の撤去後に、大川橋から難波橋に改称されました。
 天満橋は、現在の谷町筋に架け替えられた後の姿が描かれています。市電は橋の東側の別の橋を走っています。北岸の一筋東に「天満橋筋」の地名がありますが、かつては、この筋に「天満橋」が架かっていました。

大阪市内詳細図(大正3年)
(国際日本文化研究センター蔵)

 大正13年発行の大阪市パノラマ地図を見てみましょう。天満橋と天神橋は現在とは異なりトラスの鉄橋が架かっていました。橋名の入った額が、それぞれの橋の北詰と大阪天満宮の星合池のほとりに保存されています。

大阪市パノラマ地図(大正13年)
(国際日本文化研究センター蔵)

 昭和12年発行の大大阪観光地図を見ると、中之島には市役所、豊国神社、図書館、公会堂が並び、対岸の西天満には「控訴院」の文字があります。区裁判所、地方裁判所の文字も見えます。難波橋は市電の建設に合わせて、元の位置から一筋東の堺筋に架け替えられています。

大大阪観光地図(国際日本文化研究センター蔵)

 地形図でも確認してみましょう。まずは、明治18年の陸地測量部地図です。大川の上流側から川嵜橋、天満橋、天神橋、難波橋が架かっています。川嵜橋は私橋で、他の3つは江戸幕府が管理していた公儀橋です。大坂の公儀橋は12あり、大坂城北詰の京橋、備前島橋も公儀橋でした。天神橋の下流側、難波橋との間の大川の中央部に土砂が溜まり砂洲ができています。後に、船の通行の確保のため大川を浚渫し、その土砂によって中之島が東へ延長されることになります。

明治18年陸地測量部地図(国際日本文化研究センター蔵)

 今昔マップを利用して明治41年陸地測量部地図(左)、最新の地理院地図に色別標高図を重ねたもの(右)を見比べてみます。
 左側の明治41年では、現在の主要幹線道路である国道1号線や御堂筋、堺筋、土佐堀通などは拡幅されておらず、江戸時代の町割りが残っています。天満堀川の西側には広域地名の西天満の文字が大きく記されています。中之島は難波橋まで届いています。右側の地理院地図では、中之島は天神橋まで伸びています。赤色は国道、黄色は府道、緑色は高速道路を示しています。高速道路は川の上を通っていることがわかります。

今昔マップより難波橋付近

 明治時代後半以降のまちの変遷を、今昔マップを使って辿ってみましょう。

 1枚目は、明治41年(左)と昭和4年(右)。左の地図では、城東線(現在の大阪環状線)は通っていますが、道路や掘割には江戸時代の町割りのなごりが残っています。図の左上には堀川監獄があります。東西の寺町もよくわかります。難波橋は堀川から西に2本目の筋(難波橋筋)に架かっていた旧難波橋です。

 右の地図では、市電の開通と合わせて幹線道路の拡幅と橋の架け替えが行われています。難波橋は堀川から1本西の堺筋に移設されています。中之島は現在と同じ天神橋の東まで伸びてきています。天満橋をよく見ると、市電が橋の東側を通っています。パノラマ地図で確認すると市電はトラスの外側を走っており、正確に描かれていることがわかります。監獄が堺へ移転した跡地は扇町公園になっています。

明治41年と昭和4年の地形図(今昔マップ)

 2枚目は、左が終戦後の昭和22年、右は最近の地形図です。左の地図の白い部分は戦災で焼失した地域です。東天満の多くは焼失しましたが、西天満の老松町付近は焼失を免れました。天神橋北詰から市電の通る西天神橋筋までが拡幅され現在の姿になっています。

 右の地図は現在の国土地理院地図で、市電が廃止されて地下鉄谷町線と堺筋線が通り、国道1号線にはJR東西線も地下鉄と並行して走っています。天満堀川が埋め立てられて阪神高速道路が通っています。

昭和22年と最近の地形図(今昔マップ)


 三大橋付近の現状を写真で見てみましょう。トラスの鉄橋時代の天満橋・天神橋の橋名の入った額と、現在の天満橋・天神橋・難波橋です。
 後半の4枚は、鍋島浜付近の現状です。


天満橋の額
天神橋の額
八軒家から見た天満橋(重ね橋)
八軒家から見た天神橋
天神橋
難波橋(ライオン橋)

堂島川に架かる大江橋(重要文化財)
大江橋のたもとの中之島の碑
大江橋より水晶橋を望む
佐賀藩蔵屋敷跡には大阪高等裁判所


 今回は、「淀川両岸一覧下り船の巻」の「難波橋、鍋島之浜、山崎之鼻」をご紹介しました。今昔館8階展示室の床面には大きく拡大した「大阪市パノラマ地図」がありますので、難波橋付近の様子をお確かめください。
 昨年6月から連載してまいりましたシリーズ「淀川両岸一覧にみる江戸時代の大坂」は、今回で全ての挿絵の紹介が終了しました。次回は、地形図により全行程を振り返りたいと思います。



〇企画展「掌(てのひら)の建築展 ― 橋爪紳也+遠藤秀平 建築ミニチュアコレクション ―」開催中です。
 令和3年7月10日(土)~8月29日(日)

 誰しもがどこかで手に取り、1つや2つは部屋に飾っている建築ミニチュア。私たちが住まう都市を形作る建築への愛着の結晶が建築ミニチュアではないでしょうか。「掌(てのひら)の建築展」では、世界中の建築ミニチュアを一堂に会して展示し、建築ミニチュアを通して都市や建築・住まいが持つ魅力に触れていただきます。
 建築ミニチュアを展示する企画は、2015年に開催された「ENDO SHUHEIワールド・ミニチュア・ワールド」展を始めとし、「みんなの建築ミニチュア展」としてこれまでに東京、大阪、京都、滋賀、岡山など日本各地で開催されてきました。
 今回の展覧会では、世界中の建築ミニチュアを展示し、観覧される皆様に世界旅行の気分を楽しんでいただける内容となっています。
また、写真家川村憲太氏と橋爪紳也氏のコラボレーションによる写真展「ミニチュア・ワンダーランド」を併催し、掌サイズの建築ミニチュアと巨大な都市空間や自然の景色とを組合せた作品をお楽しみいただきます。
※本展は生きた建築ミュージアムフェスティバル大阪2021の連携プログラムです。

開館時間:10時~17時(入館は16時30分まで)
休館日 :火曜日(ただし祝日を除く)
会 場 :大阪市立住まいのミュージアム(大阪くらしの今昔館) 企画展示室
      〒530-0041 大阪市北区天神橋6丁目4-20 住まい情報センタービル8階
入館料 :企画展のみ300円
     常設展+企画展 一般800円(団体700円)
           高・大生500円(団体400円)(要学生証原本提示)
*団体は20名以上。
*周遊パス・年間パスポートでも入場可。
*中学生以下、障がい者手帳等持参者(介護者1名含む)、大阪市内在住の65歳以上の方は無料(要証明書原本提示)。
交 通 :地下鉄堺筋線・谷町線、阪急電鉄「天神橋筋六丁目」駅3番出口から直結
     JR大阪環状線「天満」駅から北へ650m
主 催 :大阪市立住まいのミュージアム(大阪くらしの今昔館)
協 賛 :鹿島建設株式会社、淀鋼商事株式会社
協 力 :鹿島出版会、一般社団法人日本建築設計学会、神戸大学光嶋研究室、
     生きた建築ミュージアム大阪フェスティバル実行委員会、海洋堂、
     大阪府立大学観光産業戦略研究所、
     株式会社橋爪総合研究所、遠藤秀平建築研究所
監 修 :橋爪紳也 遠藤秀平


企画展エントランス
タワーシリーズ
太陽の塔
エッフェル塔
海洋堂
フィレンツェ大聖堂
サンマルコ広場
タワーシリーズ1
タワーシリーズ2
ミラノのドゥオーモ
(写真 川村憲太)


〇天井改修工事の実施に伴う臨時休館および一部展示室等の閉鎖のお知らせ

 大阪くらしの今昔館から重要なお知らせです。
 天井改修工事の実施にともない、令和3年9月1日から9月17日までは、全館臨時休館となります。また、9月18日より令和4年秋頃(予定)まで、9階常設展示室および10階展望フロアを閉鎖しますので、ご注意ください。

・9階、10階の閉鎖期間中は8階企画展示室に町家座敷を実物大で再現し、茶室の実物大構造模型とともに展示します。
・8階の吹抜け部分に大型映像コーナーを新設し、江戸時代の大坂の町なみと天保年間の人々の暮らしを描いた動画をご覧いただけます。

・天井改修工事期間中の入館料
8階常設展と企画展をご覧いただけます。
 一般   400円  団体(20名以上)300円
 高・大生 300円  団体(20名以上)200円 *要学生証提示

【年間パスポート】
現在年間パスポートは販売を休止しております。

【年間パスポートをお持ちの方へ】
天井改修工事期間を含む年間パスポートをお持ちの方は有効期限を延長いたします。インフォメーションにて手続きをいたしますので、次回ご来館の際にご提示ください。



〇住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」とは?

 住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」は2001年4月26日に開館しました。今年で開館20周年を迎えました。
 前館長の谷直樹先生と新館長の増井正哉先生がこれまでの道のりを振り返り、これからの課題について語り合う動画が公開されています。
 こちらからどうぞ。
https://www.youtube.com/watch?v=kFW0qbelLNo

 ここは「住まいの歴史と文化」をテーマにした、日本で初めての專門ミュージアムです。
 住まい情報センターのビルの9階「なにわ町家の歳時記」は、江戸時代のフロア。天保初年(1830年代前半)の大坂の町並みを実物大で復元しています。
 8階「モダン大阪パノラマ遊覧」は、明治・大正・昭和のフロアで近代大阪の住まいと暮らしを模型や資料で展示。
 さらに企画展示室では特別展や企画展を開催しています。


〇大阪くらしの今昔館は、6月21日から再開しています。

【イベント、ワークショップ、およびボランティアによる展示解説(町家衆による町家ツアー)中止のお知らせ】
イベント・ワークショップ等は、新型コロナウイルス感染症拡大防止の為、当面の間 開催を中止いたします。

開催を楽しみにしてくださった皆様にはご迷惑をおかけしますが、ご理解をいただきますようお願いいたします。

※スタッフによる展示解説(町家ツアー)は1日3回実施しています。お気軽にご参加ください。

住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」の9階「なにわ町家の歳時記」では、楽しいガイドツアーをおこなっております。当日ご来館の方は、自由に参加していただけます。

スタッフによるまちの解説(町家ツアー)スケジュール
①11:00~(約30分)
②13:00~(約30分)
③14:00~(約30分)



〇大阪くらしの今昔館を紹介する動画作成プロジェクトが「2021年度都市住宅学会賞・業績賞」を受賞しました

 受賞対象は「歴史博物館から発信する大阪の町家と住文化の魅力-子ども・若者・外国人に町家と住文化を理解してもらうための動画制作プロジェクト-」です。
 この動画制作プロジェクトは、2018年度に申請者らからなる博物館住まい学習研究会が「建築技術教育普及センター」の助成を受け、大阪くらしの今昔館の9階常設展示「商家の賑わい」で撮影・編集し、2019年3月に完成しました。ドイツ人留学生のザビ-ネさんがナビゲートし、今昔館ボランティア「町家衆」の皆さんが江戸時代の住民に扮して出演しています。その後、2019年7月からYouTubeで配信しました。

 授賞理由・受賞者・動画の詳細は、以下のとおりです。

・審査委員会の講評(授賞理由)
 本事業は、「大阪くらしの今昔館」の江戸時代の町並み展示を活用して、大阪の町家の建築と生活文化を伝える教育動画を制作し、YouTubeで配信するものである。変化した現在の町家でなく、江戸時代当時の建築と生活が学べる点で他の動画にはない独創性を備えている。また、制作された動画は教育効果の高い内容に加えて、外国人留学生がナビゲートする演出など様々な工夫がされており高く評価できる。本動画は、海外旅行者や社会科見学等の団体見学者に対する事前学習の活用が意図されているが、今後のITCを活用した授業の優れた教材の提供、コロナ禍における博物館の情報発信の面でも先駆的な試みであり、日本の伝統的な生活文化を世界に発信するツールとして今後の展開が期待できる。以上より、本事業は、当学会の業績賞に相応しいと認められる。

・受賞者
 大阪くらしの今昔館 前館長 谷直樹氏
 大阪教育大学教授  碓田智子氏
 大阪くらしの今昔館 特別研究員 岩間香氏
 大阪市住宅供給公社 渡邊望氏

 大阪くらしの今昔館を紹介する学習ビデオは、「なにわの町並み」、「町家の商い」、「町家のくらしとおもてなし」、「裏長屋のくらし」の4編(それぞれ日本語字幕版と英語字幕版)で構成されています。

 日本語字幕版と英語字幕版の動画はこちらをご覧ください↓↓↓
大阪くらしの今昔館 「商家の賑わい」学習ビデオ【日本語・English】



〇落語家 桂米團治と歩く江戸時代の大坂
 大阪くらしの今昔館の9階常設展示室にある江戸時代(天保年間)の大坂の町並みをご紹介する新しい動画ができました。案内人は上方の落語家、桂米團治師匠です。
〈①表通り編〉
 こちらからどうぞ。
 https://www.youtube.com/watch?v=n1moBJy5uB4
〈②町家の暮らし編〉
 こちらからどうぞ。
 https://www.youtube.com/watch?v=dDb2VBmyKnw



〇「今昔館のオンライン まなびプログラム」が公開されています
 大阪のまちと住まいや くらしのことを おうちで学んでみませんか?
 こちらからどうぞ。
 ⇒konjyakukan.com/link_pdf/今昔館のオンラインまなびプログラム.pdf




〇大阪くらしの今昔館の紹介動画
 今昔館の江戸時代のフロアをご紹介する動画は4編あります。全4編の目次はこちらからどうぞ。
 こちらから、見たい部分だけを見ることができます。英語の字幕入りの動画を見ることもできます。
http://konjyakukan.com/link_pdf/what's%20this%20.pdf



 このほかに「天神祭となにわの町」をご紹介する動画があります。
https://www.youtube.com/watch?v=3or8fq4U8zE&feature=youtu.be



 また、今昔館の近代のフロアをご紹介する動画が2編あります。
https://www.youtube.com/watch?v=SbqzmybwKss&feature=youtu.be


https://www.youtube.com/watch?v=EohP-xqrOi4




〇【動画】重文茶室「蓑庵」ー構造模型で見る茶室建築の世界
 重要文化財 大徳寺玉林院茶室「蓑庵(さあん)」の実物大構造模型(竹中大工道具館所蔵)を京都工芸繊維大学名誉教授 日向進先生が分かりやすく解説してくださいます。
 こちらからご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=tqJEnPZckbc&feature=youtu.be



 大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからご覧ください。
http://konjyakukan.com/index.html


 「今週の今昔館」の第1回から第52回までは、「古地図で愉しむ大阪まち物語」に掲載しています。
 「今週の今昔館」の第1回はこちらからご覧ください。
http://osakakochizu.blogspot.com/2016/08/blog-post_5.html


 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。

「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。
http://www.sumai-machi-net.com/
初めての方はこちらからどうぞ。
http://www.sumai-machi-net.com/howtouse


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