2018年2月13日火曜日

今週の今昔館(98) 上町台地の名所 20180213

〇浪花百景に見る江戸時代の大坂(7)

 今回は「浪花百景に見る江戸時代の大坂」の7回目、引き続き上町台地の名所をご紹介します。台地の南端(天王寺区内)の茶臼山です。

■茶臼山雲水(芳雪画)
 茶臼山の河底池に南接する邦福寺は、宝永6年(1709)黄檗四代独湛を招請して中興とした黄檗宗別格寺院。修行に励む雲水が大勢いたことから雲水寺とも称されました。
 黄檗の寺らしく仏殿・楼門など諸堂すべてを中国様式で整えていました。庭には桜や紅葉が多数植えられ、茶臼山もまるで園内にあるかの如く借景として取り込まれ、方丈座敷からの眺望はことのほかすばらしく、来観者が絶えませんでした。
 それら客の需に応じて出された普茶(ふちゃ)料理(中国風精進料理)は当寺の名物でした。煎茶の急須塚も祭祀されるなど、江戸時代以降、多くの文人が訪れた名刹でした。境内には湯が湧き、湯屋も設けられていたといわれます。昭和45年統国寺と改称されます。現在はベルリンの壁があることでも知られているお寺です。

浪花百景「茶臼山雲水」(大阪市立図書館蔵)

統国寺にあるベルリンの壁

■茶臼山(芳雪画)
 茶臼山については、5世紀ごろ築造の全長200m近い前方後円墳であるという説があります。しかし昭和61年(1986)の発掘調査結果によると、古墳に欠かせない葺(ふ)き石や埴輪(はにわ)が全く見つかりませんでした。一方、規則正しい作られ方をしている盛り土は、堺市の大塚山古墳や御勝山古墳にも共通していることから、茶臼山が古墳丘ではないとも断定できず、専門家の間で議論が繰り広げられ、結論が出されていないのが現状です。
 いまひとつの説として、延暦7年(788)に和気清麻呂が上町台地を東西に横切る運河の開削を試みましたが未完成に終わりましたが、茶臼山南側の河底池(こそこいけ、通称ちゃぶいけとも言う)はその際の河川の遺構で、茶臼山は掘り出した土を積み上げたものだとする説があります。

 明治期には住友家の邸地となり、須磨への本邸の移転後は、大正15年(1926)に住友家から大阪市へ寄贈され、天王寺公園として市民の憩いの場となっています。
 

浪花百景「茶臼山」(大阪市立図書館蔵)

 大坂冬の陣の際には徳川家康が本陣を置き、夏の陣では豊臣方の真田幸村が陣を布き、天王寺口の戦いとして激戦地となった舞台。幸村は最前線で徳川方を迎え討ちますが、壮絶な戦いの末、すぐ北の安居天神に落ちてゆきます。合戦の後、茶臼山山頂にて家康が戦勝を祝しました。江戸時代はこれに敬意を表して禁足地とされていました。現在当地には、「大坂の陣史跡・茶臼山」の石碑が建っています。

大坂の陣史跡の石碑

 天保年間発行の「浪華名所獨案内」では、地図の右端(南端)に茶臼山があります。大正13年発行の「大阪市パノラマ地図」では、天王寺公園の脇に茶臼山が描かれ、住友邸の文字も見えます。

浪華名所獨案内(「津の清」蔵・上が東です)

大阪市パノラマ地図(大阪くらしの今昔館蔵)

 大坂冬の陣、夏の陣の戦況をウィキペディアより引用し(≪ ≫内)、なぜ茶臼山に本陣が置かれ激戦地となったのかをみていきましょう。

 ≪慶長19年11月19日(1614年12月19日)、戦闘は木津川口の砦において始まります(木津川口の戦い)。この後11月26日には鴫野・今福で(鴫野・今福の戦い)、11月29日には博労淵、野田・福島において戦闘が行われました(博労淵の戦い、野田・福島の戦い)。数ヶ所の砦が陥落した後、11月30日に豊臣軍は残りの砦を破棄、大坂城に撤収します。

 豊臣方が籠城した大坂城を徳川方は約20万の軍で完全に包囲しました。家康は12月2日茶臼山を、以降は各将の陣を視察し、仕寄(攻城設備)の構築を命じています。4日より各隊は竹束・塹壕・築山などの仕寄の構築を行いつつ大坂城に10町から5・6町まで接近していきました。これ以前、家康は10月22日に命じた方広寺の炉で作成させた鉄盾を各将に配布しています。
 この接近時に起こった真田丸の戦い(12月3日、4日)で豊臣軍が徳川軍を撃退。秀忠は4日に岡山(のちに御勝山)に着陣し、家康が和議を考えていると知り家康に総攻撃を提案しますが、家康は「敵を侮る事を戒め戦わずに勝つ事を考えよ」と却下しています。5日、家康は住吉から茶臼山に本陣を移し、8日までに到着した部隊にも仕寄(しより、塹壕の事)の構築を命じています。
 和議の交渉は18日より徳川方の京極忠高の陣において、家康側近の本多正純、阿茶局と、豊臣方の使者として派遣された淀殿の妹である常高院との間で行われ、19日には講和条件が合意、20日に誓書が交換され和平が成立しました。同日、家康・秀忠は諸将の砲撃を停止させています。
 講和内容は豊臣家側の条件として
・本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、惣構の南堀、西堀、東堀を埋めること。
・淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田有楽斎より人質を出すこと。
が提出され、これに対し徳川家が
・秀頼の身の安全と本領の安堵。
・城中諸士についての不問。
を約束する事で和議は成立。この他、秀頼・淀殿の関東下向を行わなくて良い事も決められました(ただし、二の丸の破壊をしなくても良いという史料もあります)。≫


 冬の陣では豊臣方は天下の名城大坂城に籠城し、総構え堀の外に陣を構えた武将は、真田丸の真田信繁(幸村)のみでした。真田丸は大坂城の最大の弱点である南側を守るために作られ、徳川方に大きな被害をもたらしました。家康が本陣を構えた茶臼山からは、大坂城を望むことができたといわれます。


大坂冬の陣布陣図(Wikipediaより)

 ≪和議条件の内、城の破却と堀の埋め立ては二の丸が豊臣家、三の丸と外堀は徳川家の持ち分と決められていました。城割(城の破却)は古来行われていますが、大抵は堀の一部を埋めたり土塁の角を崩すだけ、城郭の一部の破壊については外周の外堀だけを埋めるという儀礼的なものでした。しかし徳川側は松平忠明、本多忠政、本多康紀を普請奉行とし、家康の名代である本多正純、成瀬正成、安藤直次の下、攻囲軍や地元の住民を動員して突貫工事で外堀を全て埋めた後、一月より二の丸も埋め立て始めました。二の丸の埋め立てについては相当手間取ったらしく、周辺の家・屋敷を破壊してまで埋め立てを強行しました。講和後、駿府に帰る道中家康は埋め立ての進展について何度も尋ねています。工事は23日には完了し、諸大名は帰国の途に就きました。この際、門や櫓も徹底的に破壊されています。

 慶長20年3月15日(1615年4月12日)、大坂に浪人の乱暴・狼藉、堀や塀の復旧、京や伏見への放火の風聞といった不穏な動きがあるとする報が京都所司代板倉勝重より駿府へ届くと、徳川方は浪人の解雇か豊臣家の移封を要求します。
 4月1日、家康は畿内の諸大名に大坂から脱出しようとする浪人を捕縛すること、小笠原秀政に伏見城の守備に向かうことを命じました。
 4月4日、家康は徳川義直の婚儀のためとして駿府を出発、名古屋に向かいました。翌5日に大野治長の使者が来て豊臣家の移封は辞したいと申し出ると、常高院を通じて「其の儀に於いては是非なき仕合せ」(そういうことならどうしようもない)と答え、4月6日および7日に諸大名に鳥羽・伏見に集結するよう命じました。樫井の戦い、道明寺・誉田合戦、八尾・若江合戦を経て、最終決戦となる天王寺・岡山合戦となります。

 5月7日、豊臣軍は現在の大阪市阿倍野区から平野区にかけて迎撃態勢を構築しました。
 天王寺口は真田信繁、毛利勝永、岡山口には大野治房ら、別働隊として明石全登、全軍の後詰として大野治長・七手組の部隊が布陣しました。
 これに対する幕府方の配置は、大和路勢および浅野長晟を茶臼山方面に、その前方に松平忠直が展開した。天王寺口は本多忠朝らが展開し、その後方に徳川家康が本陣を置きました。岡山口には前田利常ら。その後方に近臣を従えた徳川秀忠が本陣を置きました。
 正午頃に開始された天王寺・岡山合戦は豊臣方の真田隊・毛利隊・大野治房隊などの突撃により幕府方の大名・侍大将に死傷者が出たり、家康・秀忠本陣は混乱に陥るなどしましたが、兵力に勝る幕府軍は次第に混乱状態から回復し態勢を立て直し、豊臣軍は多くの将兵を失って午後三時頃には壊滅。唯一戦線を維持した毛利勝永の指揮により、豊臣軍は大坂城本丸に総退却しました。
 裸同然となっていた大坂城に、殺到する徳川方を防ぐ術はもはやなく、真田隊を壊滅させた松平忠直の越前勢が一番乗りを果たしたのを始めとして徳川方が城内に続々と乱入しました。遂には秀頼の下で大阪城台所頭を務めていた大角与左衛門が徳川方に寝返り、手下に命じて城の大台所に火を付けさせるという事態も発生し、全体に延焼した大坂城は灰燼に帰し、落城しました。≫

 徳川方の関西の拠点は京都の二条城と伏見城。京都から大坂を攻めるのに、最短距離の淀川沿いの京街道を使わず、大坂のはるか東、南を迂回して郡山・法隆寺を経由して行軍し、道明寺や若江が戦場となったのはなぜか?主戦場が大阪城の南側、上町台地上に限られたのはなぜか?

 これには、大坂の地形が大きく関係しています。当時の大和川は河内平野を北西へ流れ、大坂城の北で淀川と合流していました。大坂城の東は湿地帯で大軍が進軍することは難しかったのです。このため、上町台地の付け根に当たる道明寺や平野付近が戦場となり、最終決戦では上町台地上を攻めてくる徳川方を迎え撃つため、豊臣方は茶臼山に陣を張りました。

大坂夏の陣布陣図(Wikipediaより)

 ≪戦後、大坂城には松平忠明が移り、街の復興にあたりました。復興が一段落すると忠明は大和郡山に移封され、以降大坂は将軍家直轄となりました。幕府は大坂城の跡地に新たな大坂城を築き、西国支配の拠点の一つとしました。≫


 今回は、「浪花百景」の茶臼山雲水と茶臼山をご紹介しました。あわせて、茶臼山が冬の陣、夏の陣で本陣となるなど、大坂の陣の重要拠点であったことから、大坂の陣の概要と大坂の地形についてもご紹介しました。上町台地の地形が大坂の陣の戦況にも大きな影響を与えたことがよくわかります。

 錦絵の解説は、関西学院大学博物館「浪花百景ー大坂名所案内ー」、大阪城天守閣「特別展浪花百景ーいま・むかしー」を参考にさせていただきました。



〇次回の企画展「浪花の大ひな祭り」2月18日からです。

会期:平成30年2月18日(日)~4月2日(月) 
開館時間:10時~17時(入館は16時30分まで)
閉館日:毎週火曜日


 ひな祭りは女の子の成長を願う節句として、江戸時代には大坂の町人にも親しまれていました。上方の雛飾の特徴として内裏雛(女雛・男雛)が御殿に入る雛飾が、かつては多く作られました。また、台所道具を模した「勝手道具」は女の子に家事を教えるという意図を込めて雛に添えて飾り、手にとって遊ばれていました。
 本展では、上方の雛の特徴を持った大阪の商家の雛飾などを展示します。特に昨年寄贈された大坂の豪商「加島屋」(廣岡家)の豪華な享保雛と多種多様な雛道具の数々は必見です。また、全国から摂南大学に寄せられた雛人形の中から600体を飾る「大ひな壇」の迫力もお楽しみください。

http://konjyakukan.com/korekara.html

享保雛 加島屋伝来(大阪くらしの今昔館蔵)
ひな600体の大雛飾(摂南大学蔵)


〇今週のイベント・ワークショップ

2月14日(水)~17日(土)、19日(月)、21日(水)~24日(土)
町家ツアー

住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」の9階「なにわ町家の歳時記」では、楽しいガイドツアーをおこなっております。
当日ご来館の方は、自由に参加していただけます。
※団体でお越しの場合は、事前にお申し込みください。
開催日:平日・土曜日
(※日曜日・祝日は下記のとおり、町家衆による町家ツアーがあります。)
時 間:11:30、14:30

2月18日(日)、25日(日)
町家衆イベント 町家ツアー

江戸時代大坂の町並みについて町の特色や見どころをわかりやすく解説します。
時 間:13:10~14:00

2月17日(土)
町家衆イベント 折り紙(有料)

季節に合わせてさまざまな折り紙をお教えします。
作品は持ち帰っていただきます。
開催日:偶数月の第3土曜
時 間:13:30~15:00

2月18日(日)
町家衆イベント 今昔語り

大阪に残る昔ばなしを、町家の座敷でお聞かせします。
あたたかくなつかしい風情をお楽しみください。
開催日:お茶会と同日
時 間:14:30~15:00

町家衆イベント 町の解説
江戸時代の大坂では人々はどのように暮らしていたのか。
当時の史料(複製)とともに町会所で詳しく説明します。
開催日:第1・3日曜
時 間:13:00~16:00

イベント 町家でお茶会
町家の座敷でお抹茶とお菓子をお召し上がり頂けます。     
協力:大阪市役所茶道部
先着順50名、茶菓代300円    
※当日12時より受付でお茶券を販売します
13時~15時

ワークショップ ハンカチを染めよう
①13時30分 ②14時30分
当日先着各回10名、1人300円
*当日12時より受付で参加整理券を販売します

2月24日(土)
ワークショップ 『ミニ雛人形を作ろう』

①13時30分 ②14時30分
当日先着各回10名、1人300円
*当日12時より受付で参加整理券を販売します

2月25日(日)
イベント 町家寄席-落語

江戸時代にタイムスリップ!大坂の町家で、落語をきいてみませんか
出演:桂出丸、桂小鯛
14時~15時

町家衆イベント 絵本で楽しい時間
むかし話などの絵本を表情豊かに読み聞かせます。
じっくりとお聞きください。
開催日: 第4日曜
時 間:14:30~15:00


そのほかのイベント・ワークショップはこちらからご覧いただけます。
そのほか定期開催のイベントはこちらからご覧ください。


大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからどうぞ。

 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。
「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。≫http://www.sumai-machi-net.com/
初めての方はこちらからどうぞ。≫http://www.sumai-machi-net.com/howtouse

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