2018年7月23日月曜日

今週の今昔館(121) 天神祭の模型、天神祭の歴史 20180723

 今日7月23日は天神祭の宵々宮、御羽車巡幸祭とギャルみこしがあります。明日24日は宵宮、鉾流神事、行宮祭です。明後日25日は本宮、陸渡御、船渡御、宮入があります。天神祭は、かつては旧暦6月25日に開催されていましたが、新暦になって、毎年7月25日に開催されるようになりました。そこで、今回は、近代展示室にある天神祭の模型を改めてご紹介し、天神祭の歴史を振り返ってみます。

〇今昔館8階の天神祭の模型と天神祭の歴史

 天神祭は大阪で最大の都市祭礼です。祭りは、最終日に大川、堂島川で繰り広げられる船渡御をもってクライマックスを迎えます。大勢の見物人、川沿いの篝火と夜店、そして打ち上げ花火が、大阪の夏の夜を華やかに彩ります。模型は大正10年(1921)に描かれた絵巻「夏祭船渡御図」(大阪天満宮蔵)をもとに再現したもので、かんかん帽に洋服を着た船上の人、蒸気船、川べりに建つ近代建築に当時の雰囲気があふれています。

大阪くらしの今昔館8階の天神祭の模型
「夏祭船渡御図」(大正10年、大阪天満宮蔵)

 船渡御の舞台は、現在では天神橋から上流の毛馬橋にかけての大川ですが、当時は鉾流橋から下流にあたる松島の御旅所に向けて堂島川を中心に行われていました。8階フロアの中央にある「大阪市パノラマ地図」で、当時の様子を見てみましょう。
 1枚目は天満宮から中之島にかけてです。市電が走っていた様子、天神橋の橋の形が現在と違ってトラス構造の鉄橋であったことが分かります。

「大阪市パノラマ地図」の天満・堂島付近
(大正13年、大阪くらしの今昔館蔵)

 2枚目は、もう少し西側の下流部です。中之島には西側から日本銀行、市庁舎、豊国神社、図書館、公会堂、大阪ホテルが並んでいて、公会堂の北側には鉾流橋が架かっています。対岸には天満警察があり、その前に鳥居が描かれています。毎年7月24日の朝、ここで天神祭の幕開け行事である鉾流神事が催されます。天満警察の左手(西側)には赤レンガの控訴院(現在の高等裁判所)があります。

「大阪市パノラマ地図」の堂島川付近
(大正13年、大阪くらしの今昔館蔵)

 8階フロアの天神祭の模型にも背景に控訴院が描かれています。模型の中の御迎船は控訴院の前を左手、下流に向かって進んでいる様子が再現されています。

大正時代の天神祭船渡御(大阪くらしの今昔館)

 天神祭本番を迎える前に、天神祭の歴史と、祭りに欠くことのできない御迎人形について、天神祭総合情報サイトからも引用させていただきながら、ご紹介します。

■天神祭の歴史
 大阪天満宮が創祀されたのは平安時代後期の天暦3年(949)のことです。その当時、都では落雷や疫病の流行などの天変地異が度重なり、人々はこれを配所で非業の死を遂げられた道真公の怨霊によるものと考え、その霊を鎮めるために「天満大自在天神」としてお祀りしました。いわゆる「天神信仰」の成立です。

(天神祭の始まり)
 大阪天満宮が創祀された翌々年の天暦5年(951)に鉾流神事が始まりました。鉾流神事とは、社頭の浜から大川に神鉾を流し、漂着した場所にその年の御旅所を設ける神事で、御旅所とは御神霊がご休憩される場所のことです。この御旅所の準備ができると御神霊は陸路で川岸まで出御、乗船して大川を下り御旅所へ向かうルートを辿りました。 この航行が船渡御で、天神祭の起源とされています。
 当時は旧暦6月に鉾流神事が行われ、6月25日に船渡御が行われたといいます。室町時代の宝徳元年(1499)の公家、中原康富の「康富日記」には7月7日に天神祭が行われたとの記録も残っており、また、戦国時代の公家、山科言経の日記「言経卿記」では、天正十四年(1586)6月25日に天神祭が記録されています。菅原道真の生誕の日に因んで旧暦の6月25日に変更されたといわれます。(明治11年、太陽暦の採用で7月25日に変更されました。)
 なお、江戸初期の御旅所の常設にともない鉾流神事は中止されましたが、昭和5年(1930)に古式にのって復活しました。現在では7月24日の朝に旧若松町浜(天満警察署前)で斎行される鉾流神事は当初と同じく、天神祭の幕開け行事となっています。

(江戸時代の船渡御)
 大坂の陣の戦火で一時吹田に避難した大阪天満宮でしたが、江戸初期に再び天満へ還座された後、天神祭の再開にあたっては鉾流神事で御旅所の地を決めるのをやめて、雑喉場町(西区)に常設の御旅所がおかれました(後に戎島へ移転)。これによって船渡御のコースは固定化され、祭礼の一部始終を事前に計画できるようになりました。天満宮周辺の氏子・崇敬者が境内から川辺の乗船場まで徒歩で行列を組み(陸渡御)、乗船場からは船列を仕立てて下流の御旅所へ向かっていましたが(船渡御)、御旅所の常設後は天満宮周辺の氏子・崇敬者も御迎船を仕立てて川を遡行し、神霊奉安船と合流後に反転して、御旅所まで一緒に下航するようになったのです。

江戸時代の船渡御
右上の〇が天満宮、中央が鉾流橋、左下が戎島御旅所
(浪華名所獨案内、「津の清」蔵)
御迎船と御迎人形(大阪くらしの今昔館)

 江戸時代の町の様子を、幕末に刊行された「浪華名所獨案内」(「津の清」蔵、9階にパネル展示しています。)で見てみましょう。

大阪くらしの今昔館9階にパネル展示している
「浪華名所獨案内」
(「津の清」蔵、この地図は東が上になっています。)

 地図の右手に天満宮があり、大川沿いには青物市場と市ノ側が描かれています。西天満と中之島には「蔵屋敷多シ」、堂島には「米市場」の文字があります。中之島は難波橋の手前までしかなく、大川はここで堂島川と土佐堀川に分かれます。当時の船渡御は堂島川を下流へと進み、雑魚場(後には戎島)にあった御旅所に向かいました。見やすいように北を上にしましたので、文字が横を向いています。

「浪華名所獨案内」の天満・堂島付近(「津の清」蔵)

 天保8年(1637)刊行の「天保新改攝州大坂全圖」(国際日本文化研究センター蔵)を見ると、道路の様子も詳しく描かれ、西天満、中之島には各藩の蔵屋敷が詳細に描かれています。控訴院の場所には、佐賀・鍋島藩の蔵屋敷があったことがわかります。

「天保新改攝州大坂全圖」の天満・堂島付近
(天保8年、日文研蔵)

(幕末・維新期)

 14代将軍徳川家茂が長州再征のために来阪した時期、世情不安を理由に天神祭の渡御列は中止となり、慶応元年(1865)から明治4年(1871)までの7年間、本殿での祭儀のみが斎行されていました。戎島付近が外国人居留地になったという理由もあり、明治5年の船渡御の復興の際には、従来の戎島の御旅所ではなく松島に移転されました。
 しかし、明治6年以降、再び船渡御は中止されます。維新以来、大阪の経済は沈滞したことが最大の理由で、再び土砂の堆積をとって船渡御が復興されたのは明治14年のことでした。天神祭は昔も今も大阪経済とともに歩んできたといえるのです。

大正時代の天神祭船渡御(大阪くらしの今昔館)

(江戸時代の川口)
 御旅所のあった川口付近の様子を江戸時代の古地図で見てみましょう。
 「浪華名所獨案内」では、中之島の南西、雑魚場魚市場の対岸の島に、御番所、天神ヲタビ、南安治川、戎島、エノコジマ、九條、竹林寺といった文字があります。

「浪華名所獨案内」の川口付近(「津の清」蔵)
(上が東になっています)

 「天保新改摂州大坂全図」では、川や道路が詳しく描かれ、江之子島や戎島、大仏島などが描かれています。戎島には、御番所、御舟蔵、御舟手ヤシキ、与力、同心があり、幕府の重要拠点であったことがわかります。

「天保新改摂州大坂全図」の川口付近(日文研蔵)

(川口居留地の開設)
 大阪は慶応3年12月7日(1868年1月1日)に開市、翌4年7月15日(1868年9月1日)に開港となり、外国人が大阪に住めるようになりましたが、その場所は、居留地とそれに接続する雑居地(外国人が日本人の家屋を借りて住むことが認められた地域)に限られていました。
 川口居留地は、慶応4年(1868)の大阪開港に伴い、安治川と木津川に挟まれた弾丸型の土地に作られました。26区画、7746.5坪が競売され、5日前の神戸居留地を上回る高値で、イギリス人、アメリカ人、ドイツ人、フランス人、オランダ人が永代借地権を得ました。しかし、貿易の窓口としての川口居留地の繁栄は短く、貿易の中心はしだいに神戸に移りました。貿易商人に代わって居留地に入ってきたのは宣教師たちでした。川口はキリスト教伝道の拠点として再出発したのでした。
 道路には歩道、街路樹、街灯が整備されて、西洋館が立ち並び、西洋式の生活様式に求められる施設が周辺に数多く生まれ、文明開化そのものであり、大阪における西洋文化の窓口でした。川口居留地は、英国との間で不平等条約が改正され、国内の居留地が撤廃されることになる明治32年7月まで存続していました。

(川口居留地の区画割)
 「大阪外国人居留地の図」を見ると、戎島の北端部、弾丸型の部分が居留地として整地され、1番から26番までに区画割されています。4番、5番、14番はそれぞれ甲乙に分割されています。居留地の南側には、イギリス領事館、オランダ領事館、外国人雑居所があります。さらに南には、梅本町天神社境内があります。

「大阪外国人居留地の図」
(「大阪川口居留地の研究」より)

 天満宮の御旅所について、「かつては川口の近くにあったが、戎島付近が外国人居留地になったこともあって、明治5年の船渡御の復興の際には、従来の戎島から御旅所が松島に移転された」ことをご紹介しました。改めて、地図で確認してみましょう。「浪華名所獨案内」では御番所の南に天神ヲタビがあり、「摂州大坂全図」では、御番所、御舟蔵、御舟手ヤシキの南、御三郷蔵地の東に天神御旅所が描かれています。「大阪外国人居留地の図」では、居留地の南に、オランダ領事館、人家をはさんで、梅本町天神社境内とあります。

 このように、天満宮の御旅所は居留地に近い梅本町にありましたが、明治5年2月に松島花園町に移転しました。移転の理由は、祭礼などの場合に外国人に対して不測の事態があってはならないという届けになっているようですが、天満宮の関係者にとっては、牛は天満天神の使いとされ、御旅所の近くで牛の肉が曝されたり、食事に供されることに抵抗があり、環境が悪化したとの判断があったためともいわれているそうです。

(居留地撤廃後の川口)
 最後に、居留地が撤廃された以降の川口と御旅所が移転した松島の様子を「大阪市パノラマ地図」で見てみましょう。
 中之島から渡ってきた市電が川口を南北に貫いています。本町通りから江之子島を経て川口に入ってくる東西線と合流するところに「川口町」の停留所があります。川口の街並みは、周辺の住宅地と比べると敷地が大きく緑が豊富に描かれています。居留地の名残が残っています。対岸の江之子島には、府庁、警察本部があり官庁街となっています。

「大阪市パノラマ地図」の川口付近
(大正13年、大阪くらしの今昔館蔵)

 川口と江之子島との間を流れる木津川の下流のほうを見ていくと、木津川と尻無川に囲まれた松島があります。

「大阪市パノラマ地図」の川口~松島付近
(大正13年、大阪くらしの今昔館蔵)

 松島を拡大して見ると、南北に桜並木が描かれています。松島遊郭です。その南に、桜の木がある神社が描かれています。これが天満宮の御旅所です。東側には市電の「身禊橋」停留所もあります。
 御旅所は現在もこの地にあり、毎年7月24日にここで行宮祭(神事)が催されています。天神祭総合情報サイトによると、
「24日11:00~11:30、昭和24年まで渡御の目的地であった行宮(御旅所)にて行宮祭が行われる。寛永年間、京町堀川流末の地(後の雑喉場)に大阪天満宮の行宮が設定された。その後、行宮(御旅所)は寛文年間には雑喉場から戎島(西区本田)、さらには明治4年、松島(西区千代崎)へ移転。この行宮が設定されたことにより天神祭の船渡御は毎年行宮に向かうことになった。しかし、戦後、船渡御が復活した昭和28年以降は地盤沈下が原因で御旅所への渡御が取りやめとなり、大川上流へ遡るルートに変わって以降、毎年行宮祭が行われている。」とあります。

「大阪市パノラマ地図」の松島付近
(大正13年、大阪くらしの今昔館蔵)

大正時代の船渡御
右上の〇が天満宮、中央が鉾流橋、下が松島御旅所
(大阪市パノラマ地図、大阪くらしの今昔館蔵)

(現在の天神祭の形に)
 昭和5年(1930)には江戸時代初期から途絶えていた鉾流神事が300余年ぶりに復活されました。そして、第二次世界大戦後まもない昭和24年に、昭和13年以来中止されていた船渡御が再開されました。ところが長年にわたる大阪一帯の地盤沈下のために大川の水位があがり、川に架かる橋の下を神輿が通れず、下流の松島にある御旅所への航行が不可能になったため、翌年(昭和25年)にはまたもや中止となりました。
 歴史ある船渡御を継続させるため、昭和28年(1953)に大川を上流に遡って航行するという、今までとは全く逆の新しいコースの船渡御が復活しました。このコースが現在の船渡御のコースです。 これによって、御旅所で行っていた神事を御鳳輦奉安船で行うようになり、両岸の大群衆が見守る中で「船上祭」を斎行するようになりました。それ以来、コースを少しずつ伸ばしながら天神祭を代表する船渡御は続いています。

陸渡御・船渡御コースマップ
(京阪電車ホームページより)

(新たな試みへ)
 平成6年(1994)5月、関西国際空港の開港を記念して、大阪天満宮の神職および氏子・崇敬者ら約1000名がオーストラリアに渡り、ブリスベン市で天神祭を斎行しました。創祀以来、初めて異国で斎行された「天神フェスティバル」はその厳粛な祭儀と、豪壮華麗な渡御列によって、人々を魅了し大きな感動を与えました。
 現在では天神祭は毎年7月25日に開催されていますが、かつて、天神祭が7月7日に行われていたこともあり、七夕の祭り、星辰信仰との関係が深いこと、大阪天満宮の境内にある「星合池」がそのなごりを留めていることを踏まえて、平成7年(1995)に天満天神七夕祭りが復興しました。星愛七夕まつり、平成OSAKA天の川伝説が開催されていることにもつながっているそうです。


■御迎人形
 江戸時代、大坂の淀川沿いには諸藩の蔵屋敷が立ち並び、堂島の米市場、天満の青物市場、雑喉場の魚市場と三大市場の繁栄とともに、天神祭は盛大化していきました。
 その江戸時代前期、町人文化(元禄文化)が花咲く元禄期に、御旅所は常設されました。この御旅所周辺の町々では、天神祭の様々な趣向を凝らした風流人形をこしらえました。これが、御迎船人形(御迎人形)の始まりです。
 当時、船渡御を迎えるため、御旅所周辺の町々が祭礼に先立ち各町で飾り付け、祭り当日に船に乗せて御旅所から堂島川を上り、船渡御の一行を御旅所まで導く役割を担っていました。この頃に登場した御迎人形は、7尺8寸(2.4m)ほどの大きさで、船上に立てた棒の先に高く飾られていましたが、享保期(1716〜36)頃から約1丈5尺(4.5m)の大型人形も作られたといいます。
 御迎船に飾られた御迎人形の様子は、8階フロアの模型を見るとよくわかります。

御迎船と御迎人形(大阪くらしの今昔館)

 御迎人形の多くが、浄瑠璃や歌舞伎の登場人物を題材としていました。これらの人形は船上に設けられた舞台に人形をセットし、物語性が演出されるように工夫されました。文楽人形の細工人たちが作った御迎人形には頭や手足を動かすカラクリがほどこされていました。歌舞伎の見栄を切る人形もあれば恵比寿のように鯛を釣り上げる人形もありました。また、御迎人形が必ず赤(緋)色を身につけているのは「疫病(疱瘡)祓い」という意味があります。
 多いときには延べ数は50体を超えたといわれる御迎人形ですが、現在は16体しか残っていません。幕末・維新期の天神祭の中止や大戦の影響などにより人形数は減少してしまいました。人形たちを支えた町はその姿を変え、戦後は人形が船に乗せられることもなくなったのです。

(現存する御迎人形)
 三番叟・雀踊・安倍保名・与勘平・酒田公時・関羽・胡蝶舞・鬼若丸・八幡太郎義家・羽柴秀吉・猩々・素盞嗚尊・鎮西八郎・佐々木高綱・木津勘助・豆蔵・恵比寿(頭のみ)

 昭和48年に、このうち14体が大阪府の有形民俗文化財に指定され、平成23年には残る2体も追加指定され16体が文化財に指定されています。現在、毎年、天神祭の時期に天満宮境内と帝国ホテルのロビーなどに数体ずつ飾られています。
 また、今昔館の9階江戸時代のフロアにおいても、夏祭りの飾りの展示期間中、御迎人形を町会所に展示しています。今年(2017年)は「雀踊」です。昨年は「酒田公時」を展示していました。

酒田公時の御迎人形
(大阪くらしの今昔館で展示中)
雀踊の御迎人形(昨年展示)

 今昔館の展示を見てから天神祭の陸渡御、船渡御に行っていただくと、一層実りの多い天神祭見物になることでしょう。



〇企画展示室では、大阪市中央公会堂開館100周年記念
 特別展「大大阪モダニズム ― 片岡安の仕事と都市の文化―」を開催中です。


会期:平成30年7月21日(土)~9月2日(日)
開館時間:10:00-17:00(入館は16:30まで)

会期中の休館日:毎週火曜日【7月24日(火・祝)は開館】

 大正14年(1925)、大阪市は市域拡張によって面積・人口ともに東京市を抜き日本第一の都市となり、当時世界第6位の大都市「大大阪」が誕生しました。御堂筋の建設や公営地下鉄の開通、築港整備などが進み、また大阪市中央公会堂、大阪商科大学(現大阪市立大学)、大阪城天守閣、大阪市立美術館などの教育文化施設が誕生しました。次々と都市計画が実現する中、機能性を重視した「モダニズム建築」が現れ、大衆文化にもアールデコ風の新しいデザインが取り入れられます。

 今年は、大阪市中央公会堂が開館して100年の節目の年になります。そこで、大大阪時代の幕明けを告げるこの名建築の実施設計を手掛け、大阪の都市計画を指導した建築家・都市計画家の片岡 安の仕事を通して、大大阪時代の建築群と都市景観を展望します。また大大阪時代の都市美を描いた絵画を紹介し、大大阪モダニズムとも呼べるこの時代の美術・文化を再評価します。

 本展覧会は、片岡安が初代校長を務めた常翔学園(その前身である関西工學専修學校)の常翔歴史館と、大阪の建築文化の専門博物館でもある大阪市立住まいのミュージアム(大阪くらしの今昔館)の主催により開催します。

「大阪市公会堂新築設計図 透視図」
(岡田信一郎案)大阪市蔵
小出楢重《市街風景(街景)》個人蔵
川瀬巴水《大阪道頓堀の朝》
大阪市新美術館準備室蔵
「大阪の三越」個人蔵


〇大正イマジュリィ学会公開シンポジウム 第43回研究会 大阪イマジュリィをもとめてⅢ「ヴィジュアルから切る”大大阪”-アート・博覧会・マスメディアー」

日 時:平成30年7月29日(日)13:00~16:00
会 場:住まい情報センター 3階ホール
参加費:無料

“イマジュリィ”はフランス語でイメージ図像を指し、挿絵・ポスター・絵はがき・広告・漫画・写真など大衆的な図像の総称です。本学会は“イマジュリィ”を対象に、日本の視覚文化上、重要な大正時代を中心とする二十世紀初頭をクロース・アップします。

特別展「大大阪モダニズム ― 片岡安の仕事と都市の文化―」関連イベントで、朝日新聞に「大大阪君の顔」を連載した漫画家・岡本一平や、天王寺公園で開催された大大阪記念博覧会、池田遥邨《雨の大阪》など絵画、そしてメディアはいかに「大大阪」を発信するかをとりあげ、街も人もダイナミックな、この時代の大阪についてディスカッションします。

詳しくはこちらからどうぞ。
https://www.sumai-machi-net.com/event/portal/event/33208




〇今週のイベント・ワークショップ

 ※明日24日は火曜日ですが、天神祭に合わせて開館しています。


7月23日(月)~28日(土)、30日(月)、8月1日(水)~4日(土)
町家ツアー

住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」の9階「なにわ町家の歳時記」では、楽しいガイドツアーをおこなっております。
当日ご来館の方は、自由に参加していただけます。
※団体でお越しの場合は、事前にお申し込みください。
開催日:平日・土曜日
時 間:①11:30~、②14:30~
(※日曜日・祝日は下記のとおり、町家衆による町家ツアーがあります。)

7月29日(日)、8月5日(日)
町家衆イベント 町家ツアー

江戸時代大坂の町並みについて町の特色や見どころをわかりやすく解説します。
時 間:13:10~14:00

7月28日(土)、29日(日)
ワークショップ 大阪欄間を彫ろう

伝統的な手づくりの味「大坂欄間」。
大阪欄間の説明、伝統工芸士によるミニ欄間作りの指導を行います。
時 間 ①12時30分~14時 ②15時~16時30分
対 象 18歳以上、各回15名
材料費 A1000円、B2000円、C2500円の3コースから選択
(B・Cは難易度高、数量限定。別途入館料必要。)
申 込 往復はがきに(FAXも可)、住所・氏名・年齢・電話番号・希望日時・希望コースをご記入の上、
    〒566-0052
    大阪府摂津市鳥飼本町1-4-26サンハイツ西本101号
             大阪欄間工芸協同組合宛
     (FAXの場合、072-646-8471)
締 切 7月13日(金)必着(多数申込の場合は抽選)
問合せ 072-646-8470(大阪欄間工芸協同組合)

8月4日(土)
イベント 町家寄席-落語

江戸時代にタイムスリップ!大坂の町家で、落語をきいてみませんか
     出演:桂出丸 他
14時~15時

ワークショップ 『うちわを作ろう』
①13時30分 ②14時30分
当日先着10名、参加費300円
*当日12時より受付で参加整理券を販売します
講師:大阪くらしの今昔館 町家衆

8月5日(日)
町家衆イベント 町の解説

江戸時代の大坂では人々はどのように暮らしていたのか。
当時の史料(複製)とともに町会所で詳しく説明します。
開催日:第1・3日曜
時 間:13:00-16:00,br>


そのほかのイベント・ワークショップはこちらからご覧いただけます。
そのほか定期開催のイベントはこちらからご覧ください。

大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからどうぞ。

 「今週の今昔館」は第1回から第52回までは、大阪市立住まい情報センターの住まい・まちづくり・ネット「スタッフのつぶやき」に掲載されています。
「今週の今昔館」第1回はこちらからご覧ください。
http://sumai-osaka.blogspot.jp/2016/04/blog-post.html


 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。

「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。
http://www.sumai-machi-net.com/
初めての方はこちらからどうぞ。
http://www.sumai-machi-net.com/howtouse



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